▼デジタル時代の創造活動は、最新のテクノロジーと渡りをつけて未踏領域に分け入る期待と興奮に
満ちている。
しかし、やっかいなこともつきまとう。そのひとつが、現行の著作物、著作権法なんだとおもう。
この領域に、法律の専門的な立場から『
クリエイティブ・コモンズ(CC)ライセンス』と
いう石を投げ込んだ人がいる。(以降、
CCと
表現)
ローレンス・レッシグ@スタンフォード大に会う。
日本でも2006年3月から若い優れた人々が集まってクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)を立ち上げ、さまざまな研究、
実践的な活動を通してこの考えが果たして時代と整合するのか?文化との相性みたいなものはどーよ?ということを果敢に探っていこうとしている。
その彼らが
レッシグ・イベントを企てた。
CCと
は?
http://www.creativecommons.jp/learn/
★
連
画やカンブリアンをねたに登壇した
安斎さん→日記
△
連画とは?,
連画とは?,
連画とは?
ともあれ、会場を見渡せばあまり知り合いがいない(最近、どこにいっても世間が狭いと感じることが多いのにさ、
愉快)。
それでも、かつて
元旦連画をプロデュースした元共同通信社の北島さんや、連画と深く関わっ
ちゃったNTTの木原さんたちとばったり。
未来館でのWSを手伝ってくれたコバヤヒ賢司君もいたな、そういえば。
ま、しかしそんなもん。
彼らの臭覚は、また独特なのだろう。
【この会を企画運営した鈴木健(伝播投資貨幣PICSYの)、ドミニク・チャン、野口祐子といった主要なメン
バーと歓談】
【関係者一同に会して】
さてしかしだ、
CCに
ついては、課題もある。
私自身、とても慎重〜という風と大胆〜という2種の風の渦巻く中に突っ立ってる感じ。
今、中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズの「熊から王へ」を読んでいるけど、印象に残るのは”熊は、人と変わ
らない。ただ毛皮を着てるだけ”という神話的解釈;対称性の世界感。
「たとえば森の中でみつけた熊を、単なる獲物とみるのか?」;毛皮がほしい。ついでに肉もほしい。それを剥ぎ
取って「あら、ごみ出たわ。いらないわ、捨てちゃう。」という意識でどんどん単に消費しまくるのか?
そうじゃなくて、
実は、熊ってのは、毛皮を着た自分とは変わらない人であると解釈する。たまたま毛皮をまとった自分の兄弟・姉妹・縁者と変わらない。
その熊を狩りし、一時毛皮や肉をいただくのだもの、そりゃー懇ろに骨や筋まで敬りましょう。
だからまた元気に黒々とした毛皮をまとって自分たちの”客人”として訪れてね。人と熊という種の壁は特に無くて人もどちらの世界にも
行き来するような神話の例が多く語られている。
自分が、人だか、熊だか解らなくなる。
(まるで連画やカンブリアンの共
創空間みたいと思った;あるときは、自分のイメージ作品を他人(ひと)に食われて、ある日は他人(ひと)のを食っちゃう。 )
『クリエイティブ・コモンズ(CC)ライセンス』
が、勢い宗教や神話になってしまっては、きっとまずいとは思うよ。
おおいなる大志をいだきながも、なぜか時代の離反モデルと化したいくつもの試みを過ごしてきてもいるのだから。
しかし、レッシグが、法律の専門家でありながら「なんでもかんでもすぐ法的な場に持ち出すのは賢明ではない。ま
ずは、その現場での十分な調整、検討が必要である。」とも語っている。その横顔をみながら、次の機会には、この神話の話なんかもしてみたいもんだと思った
な。
【行きの大江戸線内某消費者ローン会社の、つり革にネクタイ吊った吊り広告】
”大人のローン、バランスを大切に”?だっ
たかな。
とほほな気分。
例によって、この画像は、本文とはぜんぜん関係なし。