▼最近マイミクになったgureさんから思いがけず、大阪の学会参加中のわたしたちに‘花より団
子‘な、差入れいただく。
恐縮だなー。
びっくりしたなー。
なんのお礼もできなけれど、過日の
gureさんの日記でお約束したテキストを、ではアップ。
「連画ノート」@1994年の中のわたしの発言部分、その前後の事情をもう
少し丁寧に記したものが以下、2003年の
『メディア・プラクティス』(共著/せりか書房)「メディアアート《連画》
への招待」の中の一節。
「1・2《中村》自分の中に無数の他人の気配を感じる
一九九一年暮、安斎さんの「種をください」メールは、なにかとても真新しい響き、こうした試みに宿る心の自由
さ、気楽な遊びの匂いとともに飛び込んできた。最初の連画セッションがこうしてスタートし、三往復六作品の『気楽な日曜日』が完成する。
その間、私はかつて純粋絵画領域で足掻いていたときの、実験的な試みを思い出していた。油絵専攻の学生時代(一九七九年当時)、私
は、学友のひとり岩井千佳さんにある実験をもちかけた。北向きの大きな窓のあるアトリエには、三〇号のキャンバスと赤錆びた石油缶、赤いビニール傘、それ
に白い布が置かれた。この環境で一枚のキャンバスを共有して絵を描くことにしたのだ。午前中は彼女が制作し、午後は私が交代してキャンバスに向かう。かつ
て巨大な宗教画を親方と大勢の弟子が計画的に描きすすめたり、図工の時間に課された壁画制作のように全体の一部だけを各人がしっかり担うだけの方式だった
り、いずれの共同制作ともまったく違う。全画面を一時自分のものとし、それを他人に委ねる。そしてまた自分が、というルール。
彼女が午前中にどんな痕跡を残したか、その上に何を描きつづけるか、それにわくわくしながらはじめたのだが……。さて、この若い二
人の画学生の試みがどうなったか。
真っ白なキャンバスに木炭でだいたいの構図をきめるところまでは、すんなり描き進んだと記憶している。しかしいよいよ色がのりはじ
めて、油の濃度や乾き具合を見極め、筆やペインティングナイフのタッチが入りはじめたころ、(私にとって)致命的な事件が起こった。
私は、とっておきのカドミウムイエローオレンジのチューブから勢いよく絵の具をひねり出し、赤い傘の縦に伸びる強い動きを一直線に
表現した。美しく、高価な赤い線。果たして彼女は、これにつづいてどう描きすすめるだろう。高揚した気持でアトリエを出て、次の日の午後をわくわくして
待った。
なんと!画面は、無難なブルーや茶でバランスがとられ、あの心躍るカドミウムイエローオレンジの切り込むような直線が何処にもな
い。イーゼルの前に敷かれた新聞紙の上に、鮮やかなオレンジ赤の残骸が、ただの塊になっちまって、なすりつけられていた。
いやはや、まいった。アトリエ内をうろうろ歩きまわり、それでも気をとりなおして、その美しいオレンジの残骸をテレピンでゆるく溶
いて、沈んだバーントアンバーに描かれた傘の縦の動きを再びなぞった。次の日の午後、他人の痕跡はとくになく、その次の日も共有キャンバスに変化がなかっ
た。そこで記憶の糸が途切れている。
二十年ぶりに、岩井さんに電話をしてみた。
「あーなんかそんなことやったねー…、でもさ、すぐ終わっちゃったよね」と彼女が言った。
対象を直感的に大つかみにすることが得意だった私が、その次に全体のバランスを壊さず着々と描き進む岩井さんの才能がほしくてたまら
ず思いついたアイディアではなかったかと、今から思い返すとそう思う。強引な「他人の才能移植計画」は失敗に終わった。
『気楽な日曜日』で、種として私が送ったのは、墨で描かれた裸婦をスキャニングし、さらにペイントソフトで軽く加筆したもの。当時
電話回線と通信速度四八〇〇bpsのモデムを使って、送信受信には二十分くらいかかる。このセッションは、絵の構図やテーマが大きく変わることはなく、色
彩やディテールが交換され、絵の密度がどんどん増していく展開になった。」
つづく。