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芸術の極意全体に公開
2007年11月24 日14:09
▼岡本太郎学にダイブ中・・・・、「神秘日本」(中央公論社版)を繰ると、彼の著作をはさんでさ しで向き合っているような親しさと畏敬の中、時間が過ぎる。
OCRで抜いておきたいところばかりで、ものすごく忙しい。

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  ところで、われわれが日常、社会に見る「美術」とはいったい何か。見せない作品なんて、まったく成りたたない。へでもない。見せ るからこそ価値が現出する。当り前だろう。
しかし秘めなければならない契機があるのだ。それは何か、ということだ。見せる美術が、芸術であるためには。問題は決して平板ではな い。見せる、と同時に見せないという矛盾が、一つの表情の中に内包され、充実していなければならないのだ。ジレンマである。それをどう具現するか。社会的 表現をうち出しながら見せない、というのは…。

つまり、見せて見せないことである。それは一見パラドキシカルだが、芸術の極意 だ。

私が何度も言っていることだが、表現しょうとするとき、いつでも二つの矛盾に引き裂かれる。たとえば絵を描き、 彫刻し、文章を書き、喋る。そのとき私は自分の考え、感じ方を皆に伝え、通じさせようという、徹底的な情熱に貫かれている。その時私はひどく激越だ。自分 を他の世界に押しっけようとする意思、それは一種の帝国主義といってもいい。その意思、情熱がなければ、芸術家としてゼロだ。自分こそ絶対であり、その絶 対感によって世界をおおう───。という気配のない芸術なんて、私には考えられない。

ところで、そのように単純ではないのである。それと同時に、私の中には絶対に己れを知らしめたくない、受け入れ られることを拒否する意志が激しく、同じ力 をもって働くのである。己れが他にまったく受け入れられたとすれば、とたんに、己れは他の中に解消してしまう。一部だけ理解されて、他がのこる、というこ とはあり得ない。オール・オア・ナッシングだ。しかし芸術は、オールであると同時にまたナッシングだという、不思議である。受け入れられなければならな い、と同時に絶対に受け入れさしてはいけないのだ。その矛盾した強力な意志が、それぞれの方向に働く。
よく私が芸術は好かれてはいけない、と象徴的にいうのは、まったくその意味なのだ。

いわゆる絵描きさんの絵は、あらわしっぱなしだ。
分って下さい、好いて下さい、───その芸はなかなか細かいが。そしてそういうものに一般が溺れている。
不潔の極みだ。

優れた芸術には永遠にフレッシュな感動がある。
それは永遠に己れをわたさないからだ。
その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない。秘密即純粋なのだ。つまりそれは見せていると同時に見せないことなのである。絶対の 虚無に徹し、そこから有に転じようとする。卑しい修行、芸、生業ではなく、無条件の象徴的ジェスチュアー。ただ、さし示すこと。

 激しい呪術をこめて、「これだ」と言わなければいけない。それによって、猛烈なエネルギーがふき出し、そこに 絵でも、音楽でも、哲学でも、宗教でもない、絶対の何かがあらわれるのである。いま私をとり巻き包んでいる色・形・音。その果しない饒舌の、虚と実の重な りあった層。揮沌をとおして、ただ一つ、私の心の中に強烈な実感として浮びあがってくる───それは、ながながとさし示した一本の腕である。

岡本太郎(一九六四年九月)



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久々、トップページ画像更新。
散歩途中、小田急線沿線、駅至近の銭湯を訪ねた。
合間に、デジタルドキュメントシンポジウムにも参加。

今年も、うっかり師走が近い。


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