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イエスと釈迦とソクラテスと全体に公開
2007年12月25 日19:16
▼いまごろ、ソクラテスにダイブしちゃった。
きっかけは、池田晶子著「帰ってきたソクラテス」(新潮社)のせい。

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ソクラテスと為政者、業界人、フェミニスト、老人と孫、サラリーマンとその妻とさまざまな人々を組み合わせてす さまじい劇場型鼎談がすすむ、ときには悪妻クサンチッペも乱入してさ。
すごいよ、すっかりこれの虜になっちゃった。
明日には、図書館に帰さないと。
以下に、ひとつ鼎談を書き出してみる。

P.161〜
「死後にも差別があるなら救いだ」

登場人物
 ソクラテス
 イエス
 釈迦

ソクラテス 差別の話だって。
イエス 何だい、いまさら。
釈迦 どっちで今さら?
イエス どっちかねえ。
釈迦 だって、ねえ。
ソクラテス いいんだよ。
イエス だろ?
釈迦 そりゃそうですよ。
イエス でも?
釈迦 そりゃ、あなたでしょ。
イエス かもね。
ソクラテス 僕は違うよ。
釈迦 ほんとうに?
ソクラテス やれやれー。
イエス・釈迦 いやいやー。

(暗転)

ソクラテス なぜこの世界から差別がなくならないのだろうと皆が言っている。言われてから気がつくのが、いつも の僕なんだ。あるんだそうだ、この世にはいっぱい。知ってたかい、性差別、人種差別、部落差別に障害者差別。いろいろ、もろもろ、何でもあるんだ。何で も、いいんだ。

釈迦 そりゃ何でもよいのでございましょう、彼らにしてみるのなら。

ソクラテス そう、その「彼ら」だろ?

釈迦 そのことに尽きるのでございます。

ソクラテス まあ、慌てなさんな。その「彼らと我々」って気持ちの持ち方が、この世界の差別の始まりであって、 けしからんことなのだそうだから。

イエス 全然違う話だぜ。

ソクラテス まあ、急ぎなさんな。問題はこの世の差別だ。いや、いずれにせよこの世の話以外ではないんだがね。 しかし、付き合いの良さこそが、君らの身上ってもんだろう。ここはひとつ、有難き御法話と御説教ということじゃないの。

釈迦 付き合いということなら、あなたは我々の比ではございませんでしょう。あなたは実に根気よく付き合う。も のぐさなんて、何をおっしゃる。教祖というのは決して付き合わないものなのです。
付き合わないから教祖は教祖になるのでございます。ええと、何でしたっけ、ああ、この世の差別の話でしたね。差別すなわち、シャベツ とは、本来が仏教の言葉なのでございまして、たまたま厳しい身分制度が人々を苦しめていた世の中に、万物平等、一切衆生悉有仏性を私が説いた。そして、こ れもまたまた王子であったが私が、その位を捨ててそうした。それで私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。

イエス そういうことではあるまいに。しかしそういうことなのだ。めくらを治し、いざりを癒し、買春婦を赦した から私は偉いということになっているのだ。馬鹿野郎だな。

釈迦 私が申しましたのも、そういうたまたまの現れにすぎないこの世の肉体やら身分やらの差別相に拘泥する心の 在り方こそが、ない差別をあることにしてしまっているのだということでしたのに。こんな当たり前のことに気づかない蒙昧なる衆生たちは、差別相を実相と信 じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、はじめからないものを、ますますあることにしてしまっている。ああ、色即是空、かくも単純な真理がなぜ かわからぬのでございましょう。良くって「一切衆生悉有仏性」と、叫んで唱えることなのだ。それじゃまるで、既にして平等であるというただの事実が、実現 されるべき遠い目標のようになってしまう。

イエス いや、君ね、いちばん困るのがそれだってこと。

釈迦 そう。あるものをない、ないものをあると言うのは易しいが、ないものをないと言う、そしてそれをわからせ る、それが実は難しい。

ソクラテス うふふ。

イエス 何が、うふふなんですか。ほんとにずるいんだから。確かに、執拗な問答という君の戦略こそ、先手必勝 だったのかもしれない。今にして私は思うよ。十字架か毒人参か大した違いじゃない。いずれにせよ世間というのは、わからんものが恐いものなのだ。しかし ね、君、言い出しちまったものは仕方ない、もはや断言あるのみだ。然り、然り、否、否、であるべきだ。私は言った、「神の御心を行う者は、誰も私の兄弟で ある」。

釈迦 言ったのが、マズかったですな。

イエス おや、それなら君だって、かなりなもんだぜ。「一切衆生悉有仏性」、もちろんですとも、言わずもがな だ。しかしね、その後の「除一闡提」すなわち「一部を除く」とは、ありゃ何ですか。君がそういう煮えきらない言い方するから、後世、あれは何を指すんだ、 女人か、はたまた賤民かとの詮索が絶えないそうじゃないか。知ってるかね、部落の中でも女は差別されておるとか、女の中でも部落を差別するのがおるとか、 互いに責め合ってるっていうんだぜ。差別するヤツは断じて許さん、世に平等を実現せよ、とね。

釈迦 あーあ、ヤダヤダー。

ソクラテス しかし、その点なら君だって、一言多かったんじゃないの。「ただし、この言葉を受くる力ある者のみ 受けよ」だろ。受けられるのは俺だけだ、異教徒、他宗派にはわかるまいって、連中やってるぜ。「汝の敵を愛せよ」って言われりゃさ、ない敵もあることに なっちまうことだしね。

イエス あーあ、言わなきゃよかった。

釈迦 縁なき衆生は度し難し、私が申しましたのは、それだけなのでございますよ。


ソクラテス だろ? ねえ、それは差別になるのかね。

釈迦 だって、絶対にわかってなどやるものかという構えでいる人を、どうしてわからせることができましょうぞ。 俺をわからせてみろと喧嘩腰で言われた日には、私はもう困り果ててしまうのです。


ソクラテス あっはっはっは。

イエス 笑いすぎです。

ソクラテス いや、失敬。しかし、そりゃ無理だ。だって、解るということは、自分がわかるということなんだか ら。他人が彼の代わりにわかるわけにはいかないんだから。そんな当たり前なことがわからない人に、わかるわけ、ないよね。わかるということはわかるという ことで、わからないということは、わからないということだってことくらい、ほんとはその人だってちゃんとわかってるからこそ、そんなこと言えるんだってこ とも、わからずにね。


釈迦 そう。 差別、区別、分別、すなわち「わかる」とは本来「分かる」です。万物一如の無分別たる如来蔵から生起した様々なる分別 は、その相対的な現象面にすぎないのですよ。なのに、それらのみ絶対的な実体と信じて執着する人性の愚かしさ、しかし、それをわからせることの何とまあ難 しさ。無分別がわからなければ分別の側も、実のところはわからんのでございますよ。

ソクラテス うん。僕だって、論理の問答でもって、ギュウギュウ相手を追い詰めたところで、最後のところわかる かどうかは、彼自身でしかないものね。徳は教えられるし、また教えられないと僕が言ってるのも、そのことさ。わかる人に教えれば教えられるし、わからない 人には教えても教えたことにはならない。しようがないね、こればっかりは。

釈迦 捨ておくべきだと?

ソクラテス しようがないもの。

釈迦 まさしく。

イエス 天上天下唯我独尊でよかったんだよ。

釈迦 選ばれし神のひとり子でよろしかったのは。

ソクラテス 何だって君らは、人々に向かって語り出したりしたんだい。ひとりであっちへ行っちまったきりで、よ かったじゃないの。


イエス おや、他人事みたいに。君はどうなんです。

ソクラテス 僕? 僕はまあスポーツの一種だよ、体操みたいなもんさ。だって君、唯我独尊やってるのには、人生 はちょっと長すぎるじゃない。


イエス へえ。やっぱり余裕だな。


ソクラテス そう、余裕だよ。君、この手のことには必ず余裕が必要だとおもわないかい。宗教というのは、どれ見ても、どうも余裕がな さすぎると僕は思うな。

釈迦 救済されたいと願う衆生の心には、余裕などございませんのです。

ソクラテス うん。で、君は?

釈迦 私は・・・。

ソクラテス 救済されたい衆生の心の救済したい君の心には、余裕はあるのかね。


釈迦 ・・・・・・。

ソクラテス 仏の慈悲なんて、ほんとにあるのかね。

釈迦 私はよくわからないのでございます。

イエス そういえば、凡庸な人間をどうしても愛せないって、切なく懺悔している神父がいたっけ。

ソクラテス 救済と差別とは、どういう関係にあるのかね。僕は是非、そこを君たちに訊ねてみたい。だって、信者 になるということは、自分は神に選ばれた、皆とは違う人間だってことに他ならないだろ。その選ばれた信者が、神の前に人は皆平等と説くなんて、やっぱり変 じゃないか。
人は皆同じということを皆は知らないのに自分は知っている、そのことにおいて自分は皆とは違うと思うにしたって、それは何か特別に偉 いことになるのかね。

イエス だから、それは信者の側の話ですよ。我々はそんなつもりではなかったのだ。

ソクラテス 賢明な君たちが、そんなことも見通せなかったのかね。

釈迦 私は、衆生を捨ておけなかったのございます。

ソクラテス たとえ騙しででも?

釈迦 よして下さい、人聞きの悪い。

ソクラテス だってさ、君も知っての通り、大抵の衆生というのは、かなりの程度わからんちんだぜ。こりゃ差別で なくて単なる事実を言ってるまでだが、つまり、君の言うところの「我執」ってのを、なかなか捨てられないものなのよ。自分だけは違うって、どこまでも思い たいのよ。同じと思うのも、ほんとは違うと思ってるからなのでね。いや、違うのは当然だよ、それが自分を自分と思うということなんだから。しかし、その手 の自分なんてのは、まさに自ら分かれ出た単なる現象の最たるものだろ。そんなものを何か大事なものみたいに思ってるから、せっかくわかるものも、わからん でいるんだ。本当にわかるということは、わかるということは特別なことでも何でもないとわかるということであるはずなんだ。教祖の言葉がわかったって、他 人に触れて回るような偉いことであるもんかい。

イエス それは私が旗揚げした宗教のことをおっしゃってるんですか?

ソクラテス とも限らんよ。宗教的なものとは、そも、ひとりっきりの心と、神なり仏なりとの間に発生する絶対に 孤独な何かだなんてこと、君たちに言うまでもないことだよね。なのに、なぜそのとき、他人の救済やら互いの平等やらが問題になることができるのかと、僕 は、言ってるんだ。それぞれの人間が、それぞれの仕方で、神や仏と付き合っていては、なぜいけないのだろうね。

イエス だって、それじゃ宗教にならないじゃないですか。

ソクラテス だよね。だから宗教はサギだって僕は言ってるんだよ。教団や運動になった宗教なんて、大ウソもいい とこさ。まして、言葉の数は限られてるんだ。不特定多数の人間に一方的に語る仕方じゃ、ひとつの同じ言葉がそれぞれの心にどんなふうに受け止められたかを 確認できない、回収もできない。集団をまとめる力は十分になるだろう。しかしそのための神や仏なら、話はまったく逆になってるね。

イエス やれやれ、さしずめ私は、サギ集団のボスってとこか―。いや、実のところ私の弟子たちも、どうももうひ とつ分かりが良くなくってね。なにしろこの私を、それを拝むなかれと私が説いた、当の偶像(アイドル)に仕立て上げちまった。相手みて
言わなきゃ、やっぱりダメかな。

ソクラテス 大原則だよ。それが「縁」だよ。僕には何が理解できないって、死んじまったあとに救われるヤツ救わ れないヤツというあの考え方だ。だってそうだろう、この世の我執こそ、この世で救われないことの当の原因なのに、そのワレをわざわざあの世に連れて行って まで、何で救われることがあるもんか。あんなヤツは地獄へ落ちるぞって腹立ちまぎらわすにせよ、死後こそ天国で楽してやろうと目論むためにせよ、死後の差 別で今の自分を救おうって考え方は、どう考えても無理があるよ。死後には地獄も天国ありゃしない、しかし無もまた考えられないってはっきり教えて、深く絶 望させてやる方が、よほど救いになろうってもんさ。譬えで語るのも考えものだよ。


釈迦 いえいえ、あながちそうとも言えないのでございますよ。いかなわからんちんの人間であれ、その生涯を生きゆくにつれ、次第次第 にわかるようになるものであることは、あなたもお認めになりましょう。はっきりとわかる、ありありと気付く、涅槃に覚醒するそのときまで、私たちの魂の成 長は、来世、来々世まで続くものとやはり言えるのではないでしょうか。そして、たとえばあばた、そしてこの私、幾世かを経て、もはやこの世の自分や、それ にまつわる欲得を決して信じない、そのことによって以後煩悩の六道輪廻に落ちることなく、救いは今この場で成就しているのでございます。

ソクラテス うん、そうかもしれない。でも、何でそれが救いなのかね。

釈迦 善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、と、ひっくり返してみせた者もおります。

ソクラテス うん、それもそうかもしれない。でも、何でそれが往生なのかね。

釈迦 ・・・何もかも、ありのままでよろしいのでございます。

ソクラテス だろ?僕が納得できないのはそこなんだよ。ありのままってのは、どんな価値も感情も、どんな価値で も感情でもないってことだと君は認めるね。ありのままであることが救いや往生であるのなら、それはちっともありのままじゃないじゃないか。死だなんてもの は、君だって僕だって誰だって、一度も経験した覚えのない全然知らないものだろう。知りもしないものが、いったいどうして何かの価値や感情であることがで きるんだい。もしも死が生の救いであったり、無への恐怖であったりできるのなら、君たちが教えを説く必要なんかも、本当はないはずじゃないか。

イエス もう言いなさんな。

ソクラテス いや、すまんね。ちょっと余裕を忘れたね。


釈迦 人はなかなか、ただ在るということに耐えきれない、あなたほどに強くはないのでございます。

ソクラテス 僕?僕だって退屈なのはかなわんよ。それでオイッチニの体操を、日々欠かさないってとこだもの。

釈迦 本当にそれだけでございますか?

ソクラテス 神様に訊いてよ。

イエス 君はきっと、神のことを憎んでいるのに違いない、私はそう睨むね。

ソクラテス うん、そうかもしれない。世にこれ以上差別的なヤツはまず居ないからね。ただ、憎むためにも神様に は、やっぱり居てもらわなくちゃ困るってことだ。

イエス あーあ、いち抜けた。この話はもうやーめた!

釈迦 ありのままで、よろしいのでございます。

〜P.170



著作の一覧をひくと、”なか見検索”できるものも、ぺらぺらぺら。

なお、著者の池田晶子さんは、今年2月、急逝された。
47歳。
ご冥福を祈る。

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