地平線の彼方の世界が不自由で身体が自由というパラドックス?構造化と破壊
安斎
うん、非線形っていうのはまさにそのへんのことで。
ところで、さっきの佐々木さんのバシュラールの話が示唆的なんだけど、
僕たちは象徴的な世界が自由だと思っていて、人体ってのはそれを閉じ込めるものであるとずっとイメージしてた。ところ今の一連の話ってのは非常に逆説なんですよね。
デジタルになって急に僕らはそういう問題に突き当たったんじゃなくて、実は昔からあった問題なんです。
たとえば、南極大陸を誰も見てないのに、南極の存在を信じてたでしょ。
地動説をみんな信じてるけど、身体的に直覚してる人はいないわけだ。
ほとんどすべての人が、地動説を信じていられる状況ってのは、それはヴァーチャルな世界でデジタルができる前からあるわけですよね。
デジタルってのは、今、それが極まったところにあって、決して今だからある問題ではないと思います。
それに対して身体は、身体的直感というのは共有できない。
非常にプライベートで個別性である、普遍的でなくて。
そこを突き詰めたところに立って、何で不自由を感じるのか?身体に自由を感じるのか?という逆転が起こってるわけじゃないですか、それが先ほどのパシュラールの話とつながると思います。
そのパラドックスって何なんでしょう?
安斎
僕ら連画をはじめたころに「人の皮膚に触る」というメタファーをよく使ったのね。
身体ってのは、プライベートなものでその人自身のもので。
今の杖道の話聞いて思ったのは、身体というのは設計図が共有されてる。ストリートビューのように同じ土地に住んでいるとか、同じ身体を持っているから生まれる問題みたいなものがある、すると僕らは共有する現実みたいなもに縛られるしそうすると同じ身体をもっているという現実に縛られ、同じ土地に住んでいるから戦争が起こってそれに巻き込まれ、非常に不自由な思いもする。
中村
うーん・・・・・・・身体の設計図か・・・それは形の順番程度のことだろか?
形(かた)をやってるときヨーダみたいな大師匠がつぶやいたのね、
「杖(じょう)にはね、その人なりの杖(じょう)がある。」
形があるのに、それをきっちり倣うのに、背の高い人低い人、男女、若い人老いた人、それぞれの杖道があるなんて、どういうこと?って感じでしょ。
後日、ある高段者がこんなこともいってた「相手それぞれに体格も違うから、間合いもあるからそのへんはある程度はアドリブでやってる部分もある。もちろん形はきっちりやるんだけれども。」そのへんの按配というのか、生まれてる新たななんかが、たまらないね(笑)。
佐々木
コンピュータネットワークやインターネットが、人間の精神とか神経を無限に拡張するみたいな事が「グーテンベルグの銀河系」あたりから盛んに言われてましたが、ところがインターネットがここまで普及して10年、案外無限じゃないよね。
無限にすべての人が年齢も性別も国境も越えてつながれるわけじゃない。どういうものをお互い共有するか?、僕が去年だした『インフォコモンズ』のなかにも書いたけど、ある種の共有圏=コモンズみたいなものがそこには必要である。どうい母集団で接続するのか?というのが実は重要です。
すべての人がつながることはできない、ネットは無限じゃなくてある限定されたヴァーチャル空間で在らざるえない。一方それが空間に拡張されることによって、限定されたヴァーチャル空間では持ち得なかった広い空間、広場の可能性が浮上してきているという感触を持ってます。
安斎
リアルスペースってのは、どこへいっても多義的だし共通の取り決めが無くてもなんとかなっちゃう。
インターネット上だったらあるプロトコルが共有されてないと話ができないとか、たとえばXMLだったら同じ仕組みの中でないと通じないとか、だけど、今、この空間の中だったら佐々木さんと中村さん、まるでぜんぜん地盤の違う話もがんがんできちゃう。
AR(拡張現実感)については、いっぱい現実があるのにもかかわらずみんな一緒にしちゃうみたいな問題があると思うんですよね。ストリートビューも誰が見ても同じ絵しかでてこないという現実作っちゃうわけで、そういう意味ではちっとも自由じゃないと感じます。
中村
杖道は、道具使っていかに自分が動けてないか?それぞれに解るけど、自分が拡張される感じ。だから視点固定されちゃう話とは逆か?ストリートビューは、かえって現実を狭めるって話か?最新のテクノロジーであればあるほど、みんな幸せになりたいとおもって開発するのに、便利に使おうと思うとかえってそれらがお節介しすぎてたり、人を不自由にするってことかな。
佐々木
構造化と可視化の話でいくと、、、構造化して可視化するとつまんなくなる(笑)。そこで何が起こるかっていうと構造を壊そうって動きが起こる。
佐々木
そうそう(笑)。いい例は、ジャズがそうなんですね。
1940年代チャーリー・パーカーがはじめたモダンジャズは、それまでみんなでメロディーを吹いてただけのものをある特定のコード進行の中で「ここはアドリブやってもいいですよ」としたのがモダンジャス。これが最初は画期的で面白いんだけど1950年代になって高度にインプロヴィゼーションが進化すると、そこにくり返しが起こって固定化されてしまう。そこにマイルス・デービスがでてきてコード進行はなしにして「ここからここまでは何してもいいことにしようじゃなじゃなか」と、ここでモダンジャズは破壊された。
常にジャズの世界というのは、構造化と破壊、システム化してはつぶし新しいシステムが生まれるを繰り返している。
たぶん身体性の構造化も同じように進むんじゃないのか?。
バレエも17世紀できて高度に進化して最初ははしたないからって誰も脚なんて上げてなかったのに(笑)、20世紀に入るころには誰もが脚を上げるように構造化されてしまった。そしてこれも古典となってつならなくって、まったくバレエのルールを使わないようなコンテンポラリーなものがでてきた。
構造化されたものが、破壊される。
ある意味、デジタライズされたものがもいっかいアナログにいく、それまでの構造化や可視化が完全に破壊されて何が起きてるのかわからないよね、と。何が起きてるかわからないからもう一回構造化しようぜ、可視化しようぜ、常にその繰り返しだと思うんですよね。
デジタルはアナログを恋焦がれるって感じじゃないですかね。
中村
アナログ時代、わたしが油絵やデッサンやってたときの師匠たちです。
▲教授たち
佐々木
じいさん好きですね(笑)
中村
そうそう。前半は絵の具や粘土にまみれて、お次はデジタルやネット使って連画とかカンブリアンゲームとか、それでまたその次にきてるんですよ。
デジタルとアナログの汽水域で「マチスマシーン」やってみたり、ずいぶん振幅もたせてやってきたつもりですけど、連画からの距離は、A→A’程度かもしれないよね。
マチスましーん@youtube
カンブリアン・ゲーム@youtube
連画(1/5)@youtube
次の何かをやっぱり直感してるんだと思います。狙ってるんだと思うんですよ。次なるアートがイコール杖道ではないと思うけど。だって今ある機材や画材でとらえようとしてもひどく表面的な気がしてしっくりこないもんね。
杖道をみっちりやるとおもいがけず見える次元の違う?”見えない世界”(笑)。内なる宇宙と有限の外側にある球形の皮膜とでもいうのか?!・・・相手も動く、自分も動く、相手が斬ってくるときにみえる独特な世界ってのか描線っていうのか、それをいかにどう描くか?ですよね。
中村
ううん、自分も動いてるからピントはあわない。頭にカメラくっつけてビデオ撮りしてみたりインターバル撮影してみたり、まだその兆しがほんのちょっぴり見え隠れしている段階だけどね。
中村
予想どうりの絵しか撮れないからかな・・・・
ざわざわっとくるのはぶれてる絵のほうだよね、なぜか。
中村
自分が感じてるリアルなイメージに近いのは、実はぶれてるほう、ピントのあったものより。
中村
ぶれの中に、「ああ、こうだ」という確信がもてる。
杖道が、直接的な次なるアートのかたちになるわけじゃないけど、形を練って体を錬ってるそこにパッション感じる。
動体視については、安斎さんとも盛んにいろいろ話しているところ、響いちゃいるけどそれをどう表すかはお互い少し違ってくるかもしれないけど。
▽▽▽
中村
ここで一旦、トイレ休憩(すでに01:22:56経過・・)
ところで余談だけど、杖道やって右利き左利きが曖昧になってきた、左右使うことで感覚が変わってきた。手を組んでみてどっちの親指が上とか下とか、腕組みしてどっちが上に来るとか(笑)。右脳の「う」、左脳の「さ」で言うとね長い間「さう」だったものが→最近は「うう」 へ
中村
他は?ささの男?、ううの男は?あ、内田君そうなの?
ううの女は?、うさの女は?・・・・・・・・
トイレタイム終了、では後半をはじめしょ。
▽▽▽
芸術と武道、絵描きは絵筆より重いもの持たないってのはウソ
中村
絵描きと武道について絵筆しか持たない「絵描きが武道?」って思うでしょ。違うんだなあ(笑)。
たとえば岡本太郎、万博の太陽の塔とか「芸術が爆発だ!」というCMで有名ですよね。
中村
そうね、最近「明日への神話」公開されましたね。
みなさんの先輩、嘉納治五郎が1923年ころモンパルナスに柔道場ひらいたらしいよ。
石黒敬七(明治30年〜昭和49年。柔道家、放送タレント、随筆家)を先生として送り込んでさ、そこに通った人たちの集合写真みせます。
「月刊武道」2008年1月号、P.79
佐々木
おっ、、藤田嗣治
中村
そうです。岡本太郎もいる。右の集合写真、前列むかって左端腕組んでる。後列の女子中央は女優の長岡輝子。
藤田嗣治は、柔道二段でずいぶん熱心に稽古にも通い当時国際交流基金のイベントなどでも模範演武をしてとても評判になったそうです。
レオナールフジタ=藤田嗣治の画風や絵肌を知ってると、ちょっとびっくりでしょ?武道に熱心な藤田嗣治なんて。
とろりとした陶器のような肌を持つ女や猫なんかちょろちょろ描いてる作家と思っていたら違った。去年、フランスで80年ぶりに彼の大作が発見されたのね。「争闘」と題された激しいテーマの連作。
▲「争闘T」部分、4つの2m×2m大、連作
この作品のために、彼のアトリエにはのべ50人の武道家たちが通ったとも言われているし。
真ん中で棒を握ってる男が描かれている、わたしはこれを勝手にタイトル「杖道の男」としました。
ヒースロー空港の倉庫に放置されてたらしいよ。2008年3月に巡回展に先立って東雲倉庫に荷揚げされ内覧したときは興奮した。
岡本太郎もフランス滞在中はほとんど絵を描かず、いや描けなかったんだろうね。たぶん本場フランスに行って日本人としての軸、絵描きとしての軸ががたがたになったんでしょう。
なにしろソルボンヌでマルセル・モースのもと、民族学をやり、マン・レイたちのスタジオに出入りして写真術にも没頭して、後年帰国してから日本の独特な文化や縄文土器なんかに深く鋭く斬りこんでいくそのときの武器として絵筆や粘土よりもむしろカメラが大活躍しているよね。
岡本太郎が著作物の中でこんなこと言ってます、
「若いころただ芸術家で絵描きであるということが、なんとなくむなしく感じられた。情熱的に奔放に生きるのはいい、しかし人間としてそれと反対のモメントを同時に捕まえないかぎり浮いてしまう、現代はとりわけそういう時代なのだ。画家でありながら絵筆をすてて数年間ソルボンヌのミューゼ・ド・ロンドに学び、およそ芸術表現とは正反対の民族学、哲学、社会学を勉強した。私自身はそれによって全体的に生きる意味をつかんだように思う。」
(『日本人は爆発しなければならない―日本列島文化論』より)
岡本太郎さんご存命のころは、よくTVにもでてきて変なおっさんだとおもってたし彼の作品にも感動がなかったけど、最近太郎マイブームなの(笑)。
杖道にこんなにのめりこんでわたし大丈夫か?とおもってるわけだけど、
「そんな振り子の中に生きよ。」
と、太郎さんにはすっかり励まされちゃってさ。著作物をむさぼってる、勝手読みだけど(笑)。
佐々木
岡本太郎・・・、今日偶然、カルチャルスタディーズの本に載っていて「アジア文化を読みとる」だったかな、大阪万博のときの「太陽の塔」の下がテーマ館になっていていろんな民族のものが展示されてた。
小学生のころだったけど行きましたよ。
なぜ、岡本太郎がそんなものを展示したのか?って話。
岡本太郎は、戦争にいかされてひどい目にあってるのね東京出身で親も金持ちでだったから。
佐々木
そうそう、田舎出身の古参兵にひどくいじめられたせいで日本の伝統とか慣習とか古いもの大嫌いだったのに、だんだん途中から考えが変わってきて沖縄に行ったり東北に行ったりする。
でも決して伝統や古いものが好きだったんだじゃない。
たとえば江戸時代のすばらしい器がその古さや伝統に根ざしているから愛でるんじゃない、これは作られたときはまだ伝統じゃなかった。
作られたときにパッションがあったから長く残っているのであって、そのパッションにふれたい。
古代のパッション、中世のパッション、それらを取り戻そうよそれを俺はやりたい、ということですよね。
伝統が作られたときのパッションが大事だ、と。
中村
わたしが、杖道やるってこともそうかもしれない。パッションを感じるもの、固まってないもん。
またまた岡本太郎だけど、文化庁がやってるメディア芸術祭のね「メディア芸術100選」
というのあって、わたしたちのアートが岡本太郎の
「明日への神話」に次いで二位になったんだよ。
キュレータや識者たちの選からはもれちゃったけど、ネット上の自由投票で選ばれたて狂喜したわね。
ほら、わたしたちのアートって美術館とかで展示しにくい。みなさん「トロル」セッション
やってわかったと思うけど、自分たちが制作者にも鑑賞者にもなる、そのプロセスを経験しないと解らないアートだからね。
▲創造爆発の現場「トロルとなにか?」2009年東大カンブリアンゲーム
佐々木
「明日への神話」は、なぜメディアアートなの?(笑)
安斎
このふたつが並んでメディアアートってのはすごいよね、未来を感じるよね(笑)。
中村
一番じゃなくて二位ってのがいいでしょ上品で(笑)。「カンブリアン・ゲーム」も爆発的に作品が生まれるでしょ、岡本太郎の口癖も「芸術は爆発だ!」だもんね。
因縁あるよねえおおいに。
かつてモンパルナス界隈の絵描きたちが芸術談義ばかりでなくて、武道を通じて身体的なものと自分の表現とを日常の中に組むこんでいたということが、今の我われにも十分に響くよね。
さて、そろそろ時間かな・・・とりあえずこんなところかな。
逸脱が孕まれているシステムが必須、要はオープンエンドであるかどうか
安斎
ではここからが本番(笑)、みんなも自由に話して。放課後ということでつづきの話していいですか?
ジャズの話がすごい大事だなと思った。どんな分野にもありますけど、あるところまでいくとその構造が壊れていって構造が壊す仕組みがそのジャンルの中にあれば次のステージにいける。それがないものはダメなんで。
要するにオープンエンドであるかどうか?が大事。身体が構造化、可視化といったときに僕はちょっと違和感があったんだけど。
構造化、可視化といったとたんにオープンエンドでなくなる。どうやってそこから脱するか?という仕組みがこの中にあるか?ないか?
杖道の話で言うと制定形ってありましたよね?
▲安斎さん、ここからが本番!
中村
はい、現代杖道といってもいいかもしれませんが。
安斎
あれはたぶんオープンエンドじゃない。つまり形(かた)から形(かた)を生みだすんじゃない、この形(かた)の中で収め(修め?)ましょう。形(かた)の生成力がなくなっている。
中村
そうかもしれないけどさ、しかしすごいね安斎さん、杖振らないでその観察眼は!(笑)
安斎
はい、もう達人ですからね(大笑)。杖道の達人!(エア達人、エア・ジョードーとの声/講義室一斉大笑)。
そこがね身体の問題とリンクしてて、身体がある以上は絶対オープンエンドになるんじゃないか?!広がるという気がしている。
するとほかの事しだすわけだですよね。
佐々木
問題は逸脱をどうとらえるか?
杖道にしても、こういう形があります、こう動きましょう、先生に言われた通りにやりました。それで杖道完璧か?といえば、もちろんそんなことはない。
達人になればなるほどそこから逸脱した部分のすごさみたなものをどう認識するのか?というのが大事になってきますよね。
常に構造化、可視化には逸脱が孕まれている。
その逸脱をどうやってうまくとらえていくか?その次の課題ということなんじゃないかな、そういう構図なんじゃないかな。
安斎
逸脱を許容するなんらかのシステムがそこにないとうまれようがないし認識しようがないし、生まれても逸脱が良いものであると人間が思えるかどうか・・・。
中村
形(型)無しって言葉もありますが、逸脱するということは、なにかその逸脱する元があるってのことですよね。破壊するなにかがあるから逸脱できると?
佐々木
全体、円があるんですよ。でも、その全体をとらえることはできない。
安斎
僕はやっぱり西野さんのスキルトロニクスじゃないけども、身体つかって難しいことやる、たとえばピアノを弾くとか、自転車に乗るとか、杖道やるとか・・・
これら理詰めじゃ絶対うまくいかない綻びがある。
頭を空っぽにしないと習得できないその瞬間にたぶんいろんなことが起こる。
佐々木
やっぱりわれわれの内側は無限なんですよ、宇宙というか。
中村
そう、皮膚から肉、そして骨へ、「百錬自得」の意味は、そのさらに内側の髄にまで染みこむまで稽古しなさいという意味、そこはミクロに微小になってく話じゃなくて、むしろ宇宙に広がるイメージですよね。
中村
杖道の、この継承されてきた形をきっちり生身の師匠から対面で倣っていく、この身体的な学びシステムが古くさいものだとはとっても思えないのね。
しかし、現代人には通用しないのでは?と危惧した師匠たちは、わかり易くて現実に応用できる警杖術として警察や機動隊に入れたり、スポーツ的に勝敗のあるトーナメントを開催したり工夫してきたと思うのね。
佐々木
ああ、交番なんかにも杖ありますよね。警察署の前に立ってる人が持ってるでしょ、あれが杖ですか!?。
中村
本郷三丁目交番にもありましたよ、さっき見てきたもん。
中村
そうそう。警察出身の人が杖道大会に出てくると、勝ちます、強いです。
佐々木
警官は、柔道、剣道あたり課されるんですよね、逮捕術っていうのかな。
中村
杖道の並伝武道に十手術や捕縄術もあるもんね。
さてとときどき質問もうける杖道の試合について。
杖と太刀が二組でてきてそれを3人の審判が囲む→3本形を演武→途中、杖と太刀を交代して→後半3本の形を演武→二組を見比べて審判する。
▲講義当日はビデオ視聴 ↑これは、2010年都大会六段の部決勝/追記:2011年6月23日
中村
うん、制定形。古流にはトーナメントはないから。むやみに何処でも演武したりしないもんね、神前とかへの奉納目的とかね。
安斎
僕は、エア古流杖道なんで(笑)、どうしてもこのスタイル、制定形が嫌いなんだよね。どうしてこれがありなんだ?
中村
弁解するわけじゃないけど制定形とかトーナメントのありかたは、現在進行形でまだ試行錯誤が続いてるとみえますけどね。直接の敵は目前の太刀なのに、勝負しているのはひょっとすると隣の組?確か混乱するよね。
安斎
どっちの組がうまくやったかですよね。フィギュアスケートみたいに審判がいて、結局は人が評価するわけでしょ。
佐々木
武道として矛盾してるよね。ダンスなのか?武道なのか?
このトーナメントとか、そもそも制定形っていつごろできたんですか?
中村
佐々木さんが杖道の勝敗が解らないとおしゃってましたが、かつては、いかに優れた師匠と技を磨きながら修行していくか?人生をおくるか?ということで成立してた道だったらしい(中村メモ:事実関係、確認中)。
中村
ないと思う・・・・(中村メモ:事実関係、確認中)。
安斎
どんな分野でも制定形がある。制定形ができてさっき佐々木さんが言ってた構造を壊すシステムが閉じられちゃう。
中村
杖道の世界はいまのところ、ダブルスタンダードで、12本の制定形を修めて昇段していく道と、古流、正確には神道夢想流杖道(術)の形72本を錬って稽古して巻物を拝受する方式;奥入、初目録、五目録、免許、免許皆伝に至る道と。
皆伝までいくのは大変、最後は口伝で技を伝授されるんだと言います。
古流のビデオみるとよく思うんですよね、相手が真剣に斬ってくる、それをはしっと受け止め斬り返す、対話的な真剣勝負。そこに遠慮や加減はない、これってイメージや創意をぶつけ合う連画と同じじゃん。
佐々木
まったく知らない相手と、剣道みたいに試合するというか演武することはあるの?
中村
どうなのかなあ?・・・、制定形はあると思うけど、古流72の形はどうかなあ?各師匠によって微妙にニュアンスが違うとも聞くよ。
佐々木
いずれにしても杖道のようなものは、スポーツにはなかなかないですねよね。
佐々木
スポーツには敵と味方しかないじゃないですか。
中村
奥と言われる技は、超シンプルで観ててもよく解らない。奥伝の一本「阿吽」をみせますね。
太刀と逆手にあわせる瞬間に、あーーーうんっ!おわりい。
▲古流ビデオ/乙藤師範×波止師範演武(△このビデオにはリンクしてません)
佐々木
えっおわりなんですか?、なにを今してたのか解らない(笑)。
安斎
もし実践になったとき、動きを何手先までって読んでるの?、野生の中でやったときも通じるのかな?
質疑応答・・・
安斎
さて、せっかく佐々木さん来てるから、みんなから聞きたいこと、質疑応答タイムにしません?。
伏木田
VRとかARのあとに円を描く話が出てきたときに、こっち側の世界と仮想世界の境界が円なんじゃないか?という話がすごく面白いなあと思って、人によっては見えている円がものすごく薄かったり距離があったり、広がりも狭さも両方持ち合わせてる感じで、その度合いが面白いなと思いました。
佐々木
宇宙の外側の形状はどうなのか?普通は球状と言われますよね、地球儀の内側みたいな。では宇宙船でずっと行くと壁があるのかっていうと、壁はない。宇宙空間は3次元じゃなくて最近の研究では7次元といわれて(笑)、とりあえず4次元としましょう。3次元+時間で4次元空間というのは、われわれの空間認識能力では絶対認識できない。膨らみつつあつ風船の表面で生きてるというイメージ。
ドーベルマン長田
構造化、可視化、破壊の繰り返しという螺旋に成長していくのかなと思ったんですけど、たとえば中村さんが油絵からはじまってデジタル行ってカンブリアンやって、しかしいきなりデジタルからはじまってという人もいて、人それぞれだとおもいますがそのへんはどうなんですか?
最先端を行く人にとって、構造化、可視化、破壊が行われているのか?その途中から初めてみる人たちもいるわけじゃないですか、そんなことが同時並行ですすんでいるのかなって?
佐々木
まずひとつはね、それが進化かどうか?って話。進化とは限らない単にくり返しの運動でしかない可能性はあるんですよ。もうひとつ、それがエッジの人たちだけの話なのか?
ジャズの一連の流れが進化なのかエッジな人々だけのものなのか?、結果的にポピュラーな音楽に影響していると思うんですよ。たとえ浜崎あゆみや倖田來未のダンスミュージックみたいなものにね。
ちなにもういっこ面白い話をすると、イギリスのブライアン・イーノに関する記事、ある日家に帰ったら20代前半の娘さんが1970年代のプログレッシブ・ロックのピンクフロイドかなんか聴いてた「なんで聴いてるの?」とイーノが聞いたら「えっ!これって古い曲だったんだ!?」と驚いたんだって。
iTunesみたいな音楽配信サイトができたことによって古い音楽も新しい音楽もまったくシームレスに聴くことができる。逆に音楽の歴史や流れ知ってるファンにとってはなんのプライオリティもなくなってしまうという状況が今起きてるんですよ。今、音楽の世界は、ミリオンセラー聴くみたいなトレンドを追うのでなく、自分がもっている共有空間、メディア空間の中に存在するエンターテイメントしかない。
身体性の話に戻すと、ミリオンセラーを作って売ってくというモデルがそろそろ限界に来ている。マドンナが、一昨年かな?長年契約してたワーナーミュージックを切ったんですよ、CDじゃ儲からないから。そして別の会社と再契約した。何の会社かというとライブコンサートの会社。ミュージシャンにとってのビジネスモデルが、CDを売るんじゃなくてiTunesでどんどん安価に聴いてもらう消費してもらう、そのかわりライブコンサートとか写真集とかTシャツといったサブコンテンツ、リアル空間と接続しているものを売ってくというモデルに動きつつある。
かつてバリューのあったコンテンツの価値は無くならないけれども、付随していたパッケージの価値は消滅しつつある。場とかリアル空間のもってるパワーみたいなものが再構築される時代にそろそろ来てるんじゃないかな。
安斎
アートとか、小説の世界にもありますよね、きっと・・・
佐々木
小説も今後変わると思うんですよ。アマゾンのキンドルはアメリカでも100万台くらい売れていておそらく来年には日本語版もでそう。
音楽と同じように価格破壊が起きて読書が個々の貴重な体験ではなくて、環境的な、ソーシャルな読書空間の可能性ができてるんですよ。
たとえばケータイ小説。
単一のパッケージとして読まれてるのでなく、配信サイトにケータイ小説作家が毎日毎日やってきて短いパーツを流す。すると読者がそのコミニティに参加してきて彼らの反応がストーリーに影響して小説そのものが変質していくようなあり方。
すべてがコミュニケーションプラットホームのなかに含まれている、環境空間化していく。
中村
マドンナは生身でライブに出張っていくイメージ?けっこう大変ですね・・・52歳でしょ?これからますます身体勝負ですか(笑)!帯刀さん、どうですか?昨日はタップダンスの発表会だったようですけど・・・
帯刀
うーん、わかんないようでとてもわかると感じてるところがあります。わたしタップダンス15年目なんですけど、タップダンスにもやっぱり形があって、自分の空間と外の空間があって。
先人たちが自分たちの表現をどんどん広めるためのものでありながら、ジャズと同じようにすごく自由にやってるようにみえてもそこにはきちんと形があります。それをどんどんくずしてく中で、自分流みたいなものを出してタップダンス同士の対話があったりバックのバンドたちとの対話があったりします。
自分の枠というのは、初心者のうちははその中に閉じこもっているけどある段階でばっと超えるときがあります。
超えるとき・・・横のものがみえてそれと他の横のものがみえてきて、まるで前に鏡があってそれを通してもう一度自分をみるみたいなことができて、するといままで決して破れない硬い殻があったのに、破るのではなく外と自由に行き来できるようになる。すっと出たり入ったりができるようになる・・・(ここでタップ実演いきなり始まるw)、内と外にも対話があるのかなと思いながら話を聞いてました。
「百錬自得」の話の中にしても、いいものを一回やればいいとう話は上級者むけであって、やはりそこに至るには、何万回もくり返し血のにじむような稽古や挫折ありの時期が絶対必要だと思いました。
中村
でも、ずっと精進精進、精神論ばかりもいやでしょ。もっと体の機能的な部分をあっさり、科学的に、この筋肉をこう動かすとこうなるよーみたいなことも必要じゃないの?・・・
帯刀
うん、そうするとたぶん年齢層が広がるんですよ、できる人のね。タップでも杖道でも子供はたぶん感覚で解るから「背中をみなさい。」的に師範の背中見てできると思う。
でも、おばさんやおじさんが始めようとしたら構造を教えてもらえるとすごく解りやすい。”言葉になったレッスン”というのは、すごく年齢層の幅を広げるような気がします。
安斎
杖道の制定形ってのは、大衆化を狙ってる?生成の現場と大衆に広がってくのとは論理が違うんだな・・・
中村
大衆化、生成、その中間などなど、多様というか悩ましいけどそんな広がりも必要かなあ・・・・・というところそろそろ時間ですね(笑)。
佐々木
あまり身体性の話になりませんでしたね(笑)。
中村
超多忙なところ、長時間ありがとうございました!
-02:21:50終了
intermission 1
杖道とは?
▲128cmの杖(じょう)も準備
中村
わたしはほとんど無趣味だけど唯一散歩が趣味、途中でいろいろなものを拾います。貴金属だったり、ヒトだったり。
そんな散歩の途中、2003年ごろ、まるでジェダイマスターのヨーダみたいな老人に遭遇・・・大塚先生(
多摩杖道会)、さらに渋谷に生息する大ヨーダ、神之田先生(
日本杖道会)との出会いがあって杖道にすっかりはまりました。
【杖道とは?】wikipediaより一部引用
杖道(じょうどう)は、杖(じょう)と呼ぶ木製の棒、および木刀を用いる武道(形武道)である。
宮本武蔵と同時代の夢想権之助を開祖とする「神道夢想流杖術」を基に、清水隆次、乙藤市蔵が制定した杖道の流れを汲む「全日本剣道連盟杖道」が現在最も修行人口が多く、一般に杖道といえばこれを指す。その内容は、両手を広げた両掌中の程よい長さの杖を用いて左右均等(左太刀的)に千変万化の「打つ・突く・払う」等の技を繰り出すものである。使用する杖は神道夢想流杖術の流派杖である長さ4尺2寸1分(約128cm)、径8分(約24mm)の白樫の棒が標準であるが、本来は、立って足下から胸の高さまでの長さが良いとされている。太刀は3尺3寸5分(101.5cm)、柄の長さ8寸(24.2cm)の白樫の木刀を使用する。最大の団体は全日本剣道連盟杖道部である。通常稽古されているのは、本来「捕手術」に用いられていた実戦的で危険とも言える「杖術」を、広く普及するために、神道夢想流杖術の形から日本剣道形と整合した杖道形として1968年(昭和43年)清水隆次、乙藤市蔵により原型が制定され、その後改良が加えられているものである。
「全日本剣道連盟杖道」は、一人(単独)または二人(相対)で行う基本十二本と、二人で攻撃防御の形稽古を行う杖道形(組形)十二本がある。特に形では、打太刀(うちだち)、仕杖(しじょう)に分かれ、攻撃防御を行う。気合は打ち込みで「エイッ!」突きで「ホォッ!」と力強く発声する。
【English 神道夢想流杖道】
神道夢想流杖道というのは、400年延々と72の形がひとつも欠けずに現代まで伝わっている稀少な古武道、無形の文化です。
私ね、アートって型にはまっちゃいけないとか、型を破るとかを課されてやってきたという意識があります。
連画、カンブリアンゲームも、型をうらぎる、型はずしみたいなアートです。
そのわたしが形武道にはまるってのはいったいどうしたこと?!、去年、2008年の講義では、逆説的ではあるが古武道の形の中に自由さや創造性をみつけたんだよという話をしました。
2008年講義録「あっちからやってくる師匠がカモねぎにみえた」
ゲストにいらしたスキルトロニクスを提唱する電通大の西野さんには、ジャグリングの実演までやってもらって、人を厳しく一段引き上げる道具やシステムって何?という話で盛り上がりました。
▲西野メモ
[補足*]スキルトロニクス;スキルサイエンス+メカトロニクス、西野さんによる造語。彼の考えを3行くらいで言ってしまえば、人の能力を引き上げてくれるような道具、仕掛け、機会をめざす。とかく人にやさしいとか、人をぐるりとくるんでただただ便利なもの、お節介なものではなくて。それでは人は賢くならないし、先に進まない、向上しない。人を一段引き上げるような仕掛け、システムをめざしてる。
杖道は、スキルトロニクス的なシステムかもね、師匠があっちからシステムしょってくるかもね、というところで盛り上がりました。
渋谷に大ヨーダがいると言いましたが、現在82歳になられます。
講義の最初に、神之田先生が52歳くらいのとき、1980年ころフランスで撮影された【Mmaitres du Budo】を視聴しました。
太刀落(たちおとし)、霞(かすみ)、雷打(らいうち)、真進(しんしん)の実演です。
つづいて、現代杖道ともいえる【制定形ビデオ/全日本剣道連盟制作】も視聴、着杖、水月、引提の3本。
(△現在、これらの動画はリンクされません。)
杖道の特長は、急所を適切に狙う 水月、霞、脾腹、そして相手の動く兆しをみてはじめて動きます。
▲【Mmaitres du Budo/演武者:神之田常盛×ドン・F・ドレーガー】2'57"