2009年12月2日(水曜)東大で開講されたものをあらためて再編して公開します。
通常の講義時間90分をはるかに超えて150分間に及んだその全記録です。

東京大学大学院情報学環・学際情報学府
文化・人間情報学特別講義U「「アート・プロジェクトの設計」」
(大学院学際情報学府、教育部合併授業)
担当教員:安斎利洋中村理恵子
福武ラーニングスタジオ

ゲスト:佐々木俊尚さん(ジャーナリスト)

twitterまとめ

▲ゲストの佐々木俊尚さん。「ロジックじゃなく身体性で感じる内界と外界の境目が球形だ」 いまなぜか武道に興味があるという。

中村
みなさん、こんにちは!今日はtwitterを共有メモ用紙がわりにしましょう。さてと・・・ わたしたちの『アート・プロジェクトの設計』という15回の講義も9回目を迎えます。 「情動、emotion、BMI(ブレインマシンインターフェイス)の思考実験」、「触覚的自我ワークショップ」、カンブリアンゲーム「トロルとはなにか?」と、アートをその根っこからゆさぶる経験をしながら爆走してきたわけなんだけれど、今日は私がいま嵌っている古武道「杖道」、そして「アート」との関係をテーマにしてみたいと思います。
そして今日は、超売れっ子ジャーナリストの佐々木さんがゲストです!。IT、先端的情報ばりばりの佐々木さんが、なぜかいま「武道に興味を持っている。」とおっしゃる。 そのへんのお話をお聞きします。

事件記者がメディアアートの取材にやってきた

中村
さて、佐々木さんと初めてお会いしたのは1994年。日ごろ、それ系(笑)の抗争事件などを追うのが本業の毎日新聞記者だった佐々木さんが、NTT/ICCで展覧会をやっていた私たちを取材に来ました。メモもとらずに怖い顔して話を聞いてそのまま帰られた。さてどんな記事になるやらと楽しみに翌日の夕刊を見ると、なんと!一面に記事が載りました。驚きましたね。その後1996年、アスキーに転職されて再会。当時できたてほやほやのP2Pペイントシステムインターウォールの取材にきましたね。
あの後ですか、フリーになったのは?

▲毎日新聞 1994年12月5日夕刊一面

佐々木
2003年からフリーランスです。もうパソコン雑誌の時代は終わったなとアスキー辞めました。 これから社会がインターネットと衝突していく時代に、いわゆるガジェットとかを扱う媒体では限界があるなということです。
中村
ためしに「佐々木俊尚」を著者検索してみると、すごいなー!  (◎著書一覧参照/佐々木俊尚サイトより)。 えっと『グーグル』は話題をさらいましたね。『FLAT革命』では「安斎・中村のこころみ」の章に向けて取材にいらっしゃいました。
さて杖道の話。10月11日の「体験武道会@日本杖道会本部道場」に参加されたんですね。 渋谷の金王神社となりの本部道場での杖道初体験、いかがでしたか?

▲はじめての杖道、東大メンバーも多数参加

ネットがリアルを侵食、可視化と構造化が加速するとアナログな身体もプラモデル化できる?

佐々木
twitterにもさっき書いたけど、麻薬的な気持ちよさかな。動かしているとどんどん気持ちよくなってきて。 ITは、どんどん構造化、可視化してくるんだけど、一方でそういう没入感ってまだないなあ。武道ってたぶん、単に自分がこう動かしたらこうなるっていうだけの話じゃなくて、没入感と構造化のバランスみたいなものがあると、漠然とした感じはある。
長くなりますが・・(笑)
いまやITがどんどん普及進化している。そんな中で所詮ネットはヴァーチャルなんだよ、リアル空間とは関係ないんだよという分離された状態で動いてきたものが、最近、ネットとかITがリアルな物理空間に侵食を始めてきてるんですよ。 たとえばGoogle ストリートビューってありますよね、風景写真のサービス。勝手に人の家を撮影するなとか人の顔映ってるだとかね、激しい批判をあびてますが。 だけど自分のwebとかブログを検索されて文句言う人はいないわけです。じゃなぜ家や顔だとみんな怒るの?
web空間とわれわれが生きてるリアル空間の差というものがそこにあって、検索されることを想定して作ってるwebはOKだけど住んでる町やリアル空間で生きてることを検索されるという前提で生きてないわけですよ。 ヴァーチャル世界が切り離されてあっちの世界にいたものが、リアル空間にどんどん侵食してくる、その最初の洗礼がGoogle ストリートビューだった。
これからもっと進化普及してくるんですよ。 AR(拡張現実)なんかも話題になってて、『電脳コイル』NHK教育で有名なアニメですけど、電脳メガネをかけると物理空間にはみえないヴァーチャルなものが見える。 リアルな風景とそのメガネを通してしかみえなものがだぶってみえてくる。 日本企業がやってるiPhoneアプリのセカイカメラは、噴出しが風景と重なる、実際の建物にタグをつけることができる。アキバあたりいくと噴出し多すぎて景色が見えない(笑)。 じゃGoogle ストリートビューって何のためにあるの? 風景を標準化するっていう意味があるんですよ。札幌の時計台、有名な、 これをGoogle ストリートビューでみると周りがビルだらけで風情もなにもない、観光写真でみるものとは違ってそっけないわけですよ。 ITのシステムがリアルを侵食して、ある意味リアル空間を構造化していく、ある特定の視点に基づいてアーキテクチャーに取り込んで検索エンジンから可視化していく。
ストリートビューは単なるビットマップでしかない、それ自体はオブジェクトとして認識されてないけど、アースマイン(Earthmine)というのもあって、サンフランシスコの街角にみんなでタグをつけるんです。青いビルの線の入ったところをクリックすると12.5mと表示される。ビルの高さとか色とかどういう構造物なのか? 都市の風景を撮影しそこに存在するさまざまなオブジェクトの属性を記録してきちんと可視化していこうという動き、風景の構造化、可視化、こんなかたちでリアル空間へのITの侵食というのがすすみつつあるんですね。
セカンドライフがはやらなかったのは、身体性が欠如してたからじゃないか?身体性みたいなものがヴァーチャル空間でダイレクトに接続してない。 キーボードとマウス使って、入り方解らないでドアのところでばたばたしてるアバターをよくみかけました(笑)、自分の身体とヴァーチャル空間、メタバース空間がダイレクトに接続してない。もっと没入できて、ヴァーチャル空間とダイレクトに接続していく方向にいけばもっと進化しようがあるのに。
では、ダイレクトに身体と接続することってありえるのか? たとえば、Wii(据置型ゲーム機@任天堂)モーションコントロールついててテニスラケットふるとぶーんと音がして、フィードバックがちゃんとある。
中村
やったことないけど、気持ちいいですか?
佐々木
けっこう気持ちいいですよ。ある種の身体感覚を再生、構築している部分がたぶんあるんでしょうね。というようなあたり、いま僕が持っているITの問題意識ってのは。
これとは別に、知合いにバレエの先生がいるんですよ。
中村
バレエって、クラシックバレエ?
佐々木
そうそう。 20歳代の女性なんだけど、日本と海外のバレエ教育の違いについて話したんですよ。
日本はとにかく一生懸命やれやれでもっと緻密にロジカルに教えればいいのに、そこいくとアメリカのバレエ教育は、筋肉の成り立ちから教えるんですって。 骨と筋肉と筋がこうあってこう回って動いてと、ある程度人間をプラモデルを組み立てるように構造物として扱うんだって。まず、人間の身体を認識する。それに基づいて身体を動かすとどうもできるようになっちゃうらしい。
僕は、身体ってアナログ的だとずっと思ってたけど違うのね。 身体をきちんとトレーニングして高度に発達させることはそこに、構造化、可視化が実はおきてるんじゃないのか?。
ここ10年スポーツジムに毎日通ってほとんど菜食なんですが、自分の身体の成り立ちがどんどんわかるのがわかるんですよ。なにせかつての新聞記者時代が破滅的でしたから、夜中の1時ごろ焼肉食いに行きますから(笑)。 そのころは身体が重荷でしかない、だけど今の生活で身体がしぼれてくると運動能力も上がってくる。
身体が構造化されて可視化されてくるという話と、ITによってリアルな空間が侵食されてリアル空間自身が構造化、可視化してくる話がどこかでつながってるのくるのじゃないか?と考えてたときに、そこに突然、杖持って中村さん暴れてる(笑)って。 今は、走って筋トレやってるだけなんだけど、組みたてる武道みたいなものやると、より身体の構造化みたいなものを生々しく実感できるかもしれないなという期待もあって参加したんです。
中村
そこにつながってきますか・・・深いね、幾重にも関係しあった関心ごとや問題意識が絡んでするんだもんな。
「百錬自得」何回もくり返し骨の髄まで染みるように稽古せよということだけど、でも、杖道の大師匠は、「時は待ってくれない、正確な一本をやれ。」ともいいます。単純に繰り返せばいいってものでもないみたいね・・・。
佐々木
すべては形がベースにあるの?そこから逸脱することはないの?
中村
うん。128cmの杖と72の形の順番は変わることはない。でも実際の形ってのは生身の師匠に基づいて動く。人と人が対面ですることだからね・・・型に嵌められちゃうことを嫌うアーティストが、それとは逆説的な形武道にはまっちゃったのよ、これってどうして?という話からこの講義自体始まってるからね。今後も佐々木さんの質問、核心だと思う。

内的小宇宙と外界の境目は球形か、バレエも円、杖道も円

中村
女性でね八段位(日本剣道連盟杖道最高段位)をもつ林映子さんと親しく話す機会があって、
「ダ・ヴィンチの絵の、この円の中に杖道のすべてがある。...」
と、きっぱり言い切ったのね。つづきが聞きたくて聞きたくて、結局後日インタビューに行きましたよ。

【インタビューへ】

▲ウィトルウィウス的人体図(レオナルド・ダ・ヴィンチ1478年頃)

佐々木
バレエもね、円だといいます。人の体、円というか球だと言われます。
中村
杖道も、円というよりも動きは球ですよね。
佐々木
もうちょっと哲学的な話をするとガストン・バシュラールというフランスの哲学者がいます、1950年代前後活躍した現代の人ね。彼は、「空間の詩学」という非常に有名な著書のなかで、空間をどう認識するか?さまざまな現代詩から引用して書くという行為をしてます。
彼が面白いのは、内側と外側という概念があると、たとえばわれわれ家の中というのはとざされた空間だけど懐かしいマイホームの思い出があって自分の小宇宙でもあり無限の世界が満ちている。普通みんなは外側ってのは無限だと思ってるけど、実は、外といった瞬間に、有限の世界をイメージしてしまう。内には小宇宙があって無限の世界で、外ってのは実は無限の地平線がある世界であるという逆転したイメージをわれわれは持っていると、そうだとすると無限と有限が逆転した世界の内と外の境界線はどんな形状か?それは完全な球体であると、パシュラールは書いてます。
そのへんのこと原稿に書こうとおもったところを、難しいですけどね、読んでみます。

「鳥は完全な円である、それは円の生である。鳥に存在の雛形として意味を与え、ほとんど完全な球形の鳥は確かに活発な集中の神々しい崇高な頂点である。これ高度の統一をみることはできないし想像(創造?)することもできない。極度の集中、それはそれぞれの鳥の大きな力となる、しかし過度な個性とその孤独とその社会的な弱点を含んでいる。」


何言ってるかさっぱりわかりませんけど(笑)、常に人間の内界と外界を隔てる境界線は球状じゃないか?と、これを認識論的にどういうロジックで言えるのかという話にすぐなるけど、われわれのイメージというのは、手をまわしてみると円状になるし、杖(じょう)をくるくるまわしたときも円状になる、その身体性から出てきている延長線上に僕は、内界と外界の境目が球形だ円だとなってるのかなと思う。
中村
杖を操体するとき、師匠たちがやってるのをみるとえらく簡単にみえるんだけど、いざ自分がやってみるとなかなかできない。杖を操ることではじめて解る空間とか、意識というのがあって、杖という道具をもってはじめて解る何かがある。
佐々木
先日の体験杖道をやって面白いと思ったのは、高校時代、授業で剣道やった程度の話なんだけど剣道ってものすごく直線的なんです。面!とか突き!とかね、ところが杖道って常に先が後ろになりくるくる回してくじゃないですか。
中村
左右どちらからもね。
佐々木
あの感覚は・・・剣道は直線的、杖道は非線形というか円形、まだ、よくわからない世界だなあ。
安斎
僕はまったく杖道やってないんだけど、耳学問でイメージトレーニングの世界だけで杖道の達人なんですけど(笑)。 剣道だったら竹刀のここは持つところといった属性があるわけじゃない、杖は、もち手が刃先になったり刻一刻変わるわけでしょ、そのへんが面白い。
佐々木
たぶんそういう武道ってあまりないじゃないですか。

地平線の彼方の世界が不自由で身体が自由というパラドックス?構造化と破壊

安斎
うん、非線形っていうのはまさにそのへんのことで。
ところで、さっきの佐々木さんのバシュラールの話が示唆的なんだけど、 僕たちは象徴的な世界が自由だと思っていて、人体ってのはそれを閉じ込めるものであるとずっとイメージしてた。ところ今の一連の話ってのは非常に逆説なんですよね。 デジタルになって急に僕らはそういう問題に突き当たったんじゃなくて、実は昔からあった問題なんです。
たとえば、南極大陸を誰も見てないのに、南極の存在を信じてたでしょ。 地動説をみんな信じてるけど、身体的に直覚してる人はいないわけだ。 ほとんどすべての人が、地動説を信じていられる状況ってのは、それはヴァーチャルな世界でデジタルができる前からあるわけですよね。 デジタルってのは、今、それが極まったところにあって、決して今だからある問題ではないと思います。
それに対して身体は、身体的直感というのは共有できない。 非常にプライベートで個別性である、普遍的でなくて。 そこを突き詰めたところに立って、何で不自由を感じるのか?身体に自由を感じるのか?という逆転が起こってるわけじゃないですか、それが先ほどのパシュラールの話とつながると思います。
そのパラドックスって何なんでしょう?
佐々木
確かに。
安斎
僕ら連画をはじめたころに「人の皮膚に触る」というメタファーをよく使ったのね。 身体ってのは、プライベートなものでその人自身のもので。
今の杖道の話聞いて思ったのは、身体というのは設計図が共有されてる。ストリートビューのように同じ土地に住んでいるとか、同じ身体を持っているから生まれる問題みたいなものがある、すると僕らは共有する現実みたいなもに縛られるしそうすると同じ身体をもっているという現実に縛られ、同じ土地に住んでいるから戦争が起こってそれに巻き込まれ、非常に不自由な思いもする。
中村
うーん・・・・・・・身体の設計図か・・・それは形の順番程度のことだろか?
形(かた)をやってるときヨーダみたいな大師匠がつぶやいたのね、
「杖(じょう)にはね、その人なりの杖(じょう)がある。」 形があるのに、それをきっちり倣うのに、背の高い人低い人、男女、若い人老いた人、それぞれの杖道があるなんて、どういうこと?って感じでしょ。
後日、ある高段者がこんなこともいってた「相手それぞれに体格も違うから、間合いもあるからそのへんはある程度はアドリブでやってる部分もある。もちろん形はきっちりやるんだけれども。」そのへんの按配というのか、生まれてる新たななんかが、たまらないね(笑)。

佐々木
コンピュータネットワークやインターネットが、人間の精神とか神経を無限に拡張するみたいな事が「グーテンベルグの銀河系」あたりから盛んに言われてましたが、ところがインターネットがここまで普及して10年、案外無限じゃないよね。
無限にすべての人が年齢も性別も国境も越えてつながれるわけじゃない。どういうものをお互い共有するか?、僕が去年だした『インフォコモンズ』のなかにも書いたけど、ある種の共有圏=コモンズみたいなものがそこには必要である。どうい母集団で接続するのか?というのが実は重要です。
すべての人がつながることはできない、ネットは無限じゃなくてある限定されたヴァーチャル空間で在らざるえない。一方それが空間に拡張されることによって、限定されたヴァーチャル空間では持ち得なかった広い空間、広場の可能性が浮上してきているという感触を持ってます。
安斎
リアルスペースってのは、どこへいっても多義的だし共通の取り決めが無くてもなんとかなっちゃう。
インターネット上だったらあるプロトコルが共有されてないと話ができないとか、たとえばXMLだったら同じ仕組みの中でないと通じないとか、だけど、今、この空間の中だったら佐々木さんと中村さん、まるでぜんぜん地盤の違う話もがんがんできちゃう。
AR(拡張現実感)については、いっぱい現実があるのにもかかわらずみんな一緒にしちゃうみたいな問題があると思うんですよね。ストリートビューも誰が見ても同じ絵しかでてこないという現実作っちゃうわけで、そういう意味ではちっとも自由じゃないと感じます。
中村
視点を固定しちゃうような?
安斎
そうそう、同じ現実に。
中村
杖道は、道具使っていかに自分が動けてないか?それぞれに解るけど、自分が拡張される感じ。だから視点固定されちゃう話とは逆か?ストリートビューは、かえって現実を狭めるって話か?最新のテクノロジーであればあるほど、みんな幸せになりたいとおもって開発するのに、便利に使おうと思うとかえってそれらがお節介しすぎてたり、人を不自由にするってことかな。
佐々木
構造化と可視化の話でいくと、、、構造化して可視化するとつまんなくなる(笑)。そこで何が起こるかっていうと構造を壊そうって動きが起こる。
中村
それってわたしたちのアートのこと(笑)?
佐々木
そうそう(笑)。いい例は、ジャズがそうなんですね。
1940年代チャーリー・パーカーがはじめたモダンジャズは、それまでみんなでメロディーを吹いてただけのものをある特定のコード進行の中で「ここはアドリブやってもいいですよ」としたのがモダンジャス。これが最初は画期的で面白いんだけど1950年代になって高度にインプロヴィゼーションが進化すると、そこにくり返しが起こって固定化されてしまう。そこにマイルス・デービスがでてきてコード進行はなしにして「ここからここまでは何してもいいことにしようじゃなじゃなか」と、ここでモダンジャズは破壊された。
常にジャズの世界というのは、構造化と破壊、システム化してはつぶし新しいシステムが生まれるを繰り返している。 たぶん身体性の構造化も同じように進むんじゃないのか?。
バレエも17世紀できて高度に進化して最初ははしたないからって誰も脚なんて上げてなかったのに(笑)、20世紀に入るころには誰もが脚を上げるように構造化されてしまった。そしてこれも古典となってつならなくって、まったくバレエのルールを使わないようなコンテンポラリーなものがでてきた。 構造化されたものが、破壊される。
ある意味、デジタライズされたものがもいっかいアナログにいく、それまでの構造化や可視化が完全に破壊されて何が起きてるのかわからないよね、と。何が起きてるかわからないからもう一回構造化しようぜ、可視化しようぜ、常にその繰り返しだと思うんですよね。 デジタルはアナログを恋焦がれるって感じじゃないですかね。
中村
アナログ時代、わたしが油絵やデッサンやってたときの師匠たちです。

▲教授たち

佐々木
じいさん好きですね(笑)
安斎
ムサビ?
中村
そうそう。前半は絵の具や粘土にまみれて、お次はデジタルやネット使って連画とかカンブリアンゲームとか、それでまたその次にきてるんですよ。
デジタルとアナログの汽水域で「マチスマシーン」やってみたり、ずいぶん振幅もたせてやってきたつもりですけど、連画からの距離は、A→A’程度かもしれないよね。

マチスましーん@youtube

カンブリアン・ゲーム@youtube

連画(1/5)@youtube

次の何かをやっぱり直感してるんだと思います。狙ってるんだと思うんですよ。次なるアートがイコール杖道ではないと思うけど。だって今ある機材や画材でとらえようとしてもひどく表面的な気がしてしっくりこないもんね。 杖道をみっちりやるとおもいがけず見える次元の違う?”見えない世界”(笑)。内なる宇宙と有限の外側にある球形の皮膜とでもいうのか?!・・・相手も動く、自分も動く、相手が斬ってくるときにみえる独特な世界ってのか描線っていうのか、それをいかにどう描くか?ですよね。
佐々木
ぶれないように作るの?
中村
ううん、自分も動いてるからピントはあわない。頭にカメラくっつけてビデオ撮りしてみたりインターバル撮影してみたり、まだその兆しがほんのちょっぴり見え隠れしている段階だけどね。
佐々木
なぜつまんないの?
中村
予想どうりの絵しか撮れないからかな・・・・ ざわざわっとくるのはぶれてる絵のほうだよね、なぜか。
佐々木
ぶれてるほうがアートなんですかね(笑)。
中村
自分が感じてるリアルなイメージに近いのは、実はぶれてるほう、ピントのあったものより。
佐々木
ああ、身体性があるんだ。
中村
ぶれの中に、「ああ、こうだ」という確信がもてる。 杖道が、直接的な次なるアートのかたちになるわけじゃないけど、形を練って体を錬ってるそこにパッション感じる。 動体視については、安斎さんとも盛んにいろいろ話しているところ、響いちゃいるけどそれをどう表すかはお互い少し違ってくるかもしれないけど。


▽▽▽
中村
ここで一旦、トイレ休憩(すでに01:22:56経過・・) ところで余談だけど、杖道やって右利き左利きが曖昧になってきた、左右使うことで感覚が変わってきた。手を組んでみてどっちの親指が上とか下とか、腕組みしてどっちが上に来るとか(笑)。右脳の「う」、左脳の「さ」で言うとね長い間「さう」だったものが→最近は「うう」 へ
安斎(利)
変わったんだ!僕は、うさの男、
中村
安斎くんは?
安斎(勇)
うさの男、同じです(爆笑)
中村
他は?ささの男?、ううの男は?あ、内田君そうなの? ううの女は?、うさの女は?・・・・・・・・ トイレタイム終了、では後半をはじめしょ。
▽▽▽

芸術と武道、絵描きは絵筆より重いもの持たないってのはウソ

中村
絵描きと武道について絵筆しか持たない「絵描きが武道?」って思うでしょ。違うんだなあ(笑)。 たとえば岡本太郎、万博の太陽の塔とか「芸術が爆発だ!」というCMで有名ですよね。
佐々木
井の頭線の渋谷駅に大きな絵ありますよね。
中村
そうね、最近「明日への神話」公開されましたね。 みなさんの先輩、嘉納治五郎が1923年ころモンパルナスに柔道場ひらいたらしいよ。 石黒敬七(明治30年〜昭和49年。柔道家、放送タレント、随筆家)を先生として送り込んでさ、そこに通った人たちの集合写真みせます。

「月刊武道」2008年1月号、P.79

佐々木
おっ、、藤田嗣治
中村
そうです。岡本太郎もいる。右の集合写真、前列むかって左端腕組んでる。後列の女子中央は女優の長岡輝子。
藤田嗣治は、柔道二段でずいぶん熱心に稽古にも通い当時国際交流基金のイベントなどでも模範演武をしてとても評判になったそうです。 レオナールフジタ=藤田嗣治の画風や絵肌を知ってると、ちょっとびっくりでしょ?武道に熱心な藤田嗣治なんて。
とろりとした陶器のような肌を持つ女や猫なんかちょろちょろ描いてる作家と思っていたら違った。去年、フランスで80年ぶりに彼の大作が発見されたのね。「争闘」と題された激しいテーマの連作。

▲「争闘T」部分、4つの2m×2m大、連作

この作品のために、彼のアトリエにはのべ50人の武道家たちが通ったとも言われているし。
真ん中で棒を握ってる男が描かれている、わたしはこれを勝手にタイトル「杖道の男」としました。
ヒースロー空港の倉庫に放置されてたらしいよ。2008年3月に巡回展に先立って東雲倉庫に荷揚げされ内覧したときは興奮した。
岡本太郎もフランス滞在中はほとんど絵を描かず、いや描けなかったんだろうね。たぶん本場フランスに行って日本人としての軸、絵描きとしての軸ががたがたになったんでしょう。
なにしろソルボンヌでマルセル・モースのもと、民族学をやり、マン・レイたちのスタジオに出入りして写真術にも没頭して、後年帰国してから日本の独特な文化や縄文土器なんかに深く鋭く斬りこんでいくそのときの武器として絵筆や粘土よりもむしろカメラが大活躍しているよね。
岡本太郎が著作物の中でこんなこと言ってます、
「若いころただ芸術家で絵描きであるということが、なんとなくむなしく感じられた。情熱的に奔放に生きるのはいい、しかし人間としてそれと反対のモメントを同時に捕まえないかぎり浮いてしまう、現代はとりわけそういう時代なのだ。画家でありながら絵筆をすてて数年間ソルボンヌのミューゼ・ド・ロンドに学び、およそ芸術表現とは正反対の民族学、哲学、社会学を勉強した。私自身はそれによって全体的に生きる意味をつかんだように思う。」
(『日本人は爆発しなければならない―日本列島文化論』より)

岡本太郎さんご存命のころは、よくTVにもでてきて変なおっさんだとおもってたし彼の作品にも感動がなかったけど、最近太郎マイブームなの(笑)。
杖道にこんなにのめりこんでわたし大丈夫か?とおもってるわけだけど、
「そんな振り子の中に生きよ。」
と、太郎さんにはすっかり励まされちゃってさ。著作物をむさぼってる、勝手読みだけど(笑)。
佐々木
岡本太郎・・・、今日偶然、カルチャルスタディーズの本に載っていて「アジア文化を読みとる」だったかな、大阪万博のときの「太陽の塔」の下がテーマ館になっていていろんな民族のものが展示されてた。 小学生のころだったけど行きましたよ。
なぜ、岡本太郎がそんなものを展示したのか?って話。 岡本太郎は、戦争にいかされてひどい目にあってるのね東京出身で親も金持ちでだったから。
中村
漫画家の岡本一平と作家岡本かの子
佐々木
そうそう、田舎出身の古参兵にひどくいじめられたせいで日本の伝統とか慣習とか古いもの大嫌いだったのに、だんだん途中から考えが変わってきて沖縄に行ったり東北に行ったりする。 でも決して伝統や古いものが好きだったんだじゃない。
たとえば江戸時代のすばらしい器がその古さや伝統に根ざしているから愛でるんじゃない、これは作られたときはまだ伝統じゃなかった。 作られたときにパッションがあったから長く残っているのであって、そのパッションにふれたい。
古代のパッション、中世のパッション、それらを取り戻そうよそれを俺はやりたい、ということですよね。
伝統が作られたときのパッションが大事だ、と。
中村
わたしが、杖道やるってこともそうかもしれない。パッションを感じるもの、固まってないもん。 またまた岡本太郎だけど、文化庁がやってるメディア芸術祭のね「メディア芸術100選」 というのあって、わたしたちのアートが岡本太郎の「明日への神話」に次いで二位になったんだよ。
キュレータや識者たちの選からはもれちゃったけど、ネット上の自由投票で選ばれたて狂喜したわね。
ほら、わたしたちのアートって美術館とかで展示しにくい。みなさん「トロル」セッション やってわかったと思うけど、自分たちが制作者にも鑑賞者にもなる、そのプロセスを経験しないと解らないアートだからね。

▲創造爆発の現場「トロルとなにか?」2009年東大カンブリアンゲーム

佐々木
「明日への神話」は、なぜメディアアートなの?(笑)
安斎
このふたつが並んでメディアアートってのはすごいよね、未来を感じるよね(笑)。
中村
一番じゃなくて二位ってのがいいでしょ上品で(笑)。「カンブリアン・ゲーム」も爆発的に作品が生まれるでしょ、岡本太郎の口癖も「芸術は爆発だ!」だもんね。
因縁あるよねえおおいに。 かつてモンパルナス界隈の絵描きたちが芸術談義ばかりでなくて、武道を通じて身体的なものと自分の表現とを日常の中に組むこんでいたということが、今の我われにも十分に響くよね。 さて、そろそろ時間かな・・・とりあえずこんなところかな。

逸脱が孕まれているシステムが必須、要はオープンエンドであるかどうか

安斎
ではここからが本番(笑)、みんなも自由に話して。放課後ということでつづきの話していいですか?
ジャズの話がすごい大事だなと思った。どんな分野にもありますけど、あるところまでいくとその構造が壊れていって構造が壊す仕組みがそのジャンルの中にあれば次のステージにいける。それがないものはダメなんで。
要するにオープンエンドであるかどうか?が大事。身体が構造化、可視化といったときに僕はちょっと違和感があったんだけど。
構造化、可視化といったとたんにオープンエンドでなくなる。どうやってそこから脱するか?という仕組みがこの中にあるか?ないか? 杖道の話で言うと制定形ってありましたよね?

▲安斎さん、ここからが本番!

中村
はい、現代杖道といってもいいかもしれませんが。
安斎
あれはたぶんオープンエンドじゃない。つまり形(かた)から形(かた)を生みだすんじゃない、この形(かた)の中で収め(修め?)ましょう。形(かた)の生成力がなくなっている。
中村
そうかもしれないけどさ、しかしすごいね安斎さん、杖振らないでその観察眼は!(笑)
安斎
はい、もう達人ですからね(大笑)。杖道の達人!(エア達人、エア・ジョードーとの声/講義室一斉大笑)。
そこがね身体の問題とリンクしてて、身体がある以上は絶対オープンエンドになるんじゃないか?!広がるという気がしている。
するとほかの事しだすわけだですよね。
佐々木
問題は逸脱をどうとらえるか? 杖道にしても、こういう形があります、こう動きましょう、先生に言われた通りにやりました。それで杖道完璧か?といえば、もちろんそんなことはない。 達人になればなるほどそこから逸脱した部分のすごさみたなものをどう認識するのか?というのが大事になってきますよね。 常に構造化、可視化には逸脱が孕まれている。
その逸脱をどうやってうまくとらえていくか?その次の課題ということなんじゃないかな、そういう構図なんじゃないかな。
安斎
逸脱を許容するなんらかのシステムがそこにないとうまれようがないし認識しようがないし、生まれても逸脱が良いものであると人間が思えるかどうか・・・。
中村
形(型)無しって言葉もありますが、逸脱するということは、なにかその逸脱する元があるってのことですよね。破壊するなにかがあるから逸脱できると?
佐々木
全体、円があるんですよ。でも、その全体をとらえることはできない。
安斎
僕はやっぱり西野さんのスキルトロニクスじゃないけども、身体つかって難しいことやる、たとえばピアノを弾くとか、自転車に乗るとか、杖道やるとか・・・ これら理詰めじゃ絶対うまくいかない綻びがある。
頭を空っぽにしないと習得できないその瞬間にたぶんいろんなことが起こる。
佐々木
やっぱりわれわれの内側は無限なんですよ、宇宙というか。
中村
そう、皮膚から肉、そして骨へ、「百錬自得」の意味は、そのさらに内側の髄にまで染みこむまで稽古しなさいという意味、そこはミクロに微小になってく話じゃなくて、むしろ宇宙に広がるイメージですよね。
佐々木
髄まで意識するんですか・・・・
中村
杖道の、この継承されてきた形をきっちり生身の師匠から対面で倣っていく、この身体的な学びシステムが古くさいものだとはとっても思えないのね。
しかし、現代人には通用しないのでは?と危惧した師匠たちは、わかり易くて現実に応用できる警杖術として警察や機動隊に入れたり、スポーツ的に勝敗のあるトーナメントを開催したり工夫してきたと思うのね。
佐々木
ああ、交番なんかにも杖ありますよね。警察署の前に立ってる人が持ってるでしょ、あれが杖ですか!?。
中村
本郷三丁目交番にもありましたよ、さっき見てきたもん。
佐々木
同じ長さなの?
中村
そうそう。警察出身の人が杖道大会に出てくると、勝ちます、強いです。
佐々木
警官は、柔道、剣道あたり課されるんですよね、逮捕術っていうのかな。
中村
杖道の並伝武道に十手術や捕縄術もあるもんね。
さてとときどき質問もうける杖道の試合について。
杖と太刀が二組でてきてそれを3人の審判が囲む→3本形を演武→途中、杖と太刀を交代して→後半3本の形を演武→二組を見比べて審判する。

▲講義当日はビデオ視聴 ↑これは、2010年都大会六段の部決勝/追記:2011年6月23日

佐々木
なるほど・・・
安斎
これは制定形でしょ、古流はそうじゃない?
中村
うん、制定形。古流にはトーナメントはないから。むやみに何処でも演武したりしないもんね、神前とかへの奉納目的とかね。
安斎
僕は、エア古流杖道なんで(笑)、どうしてもこのスタイル、制定形が嫌いなんだよね。どうしてこれがありなんだ?
中村
弁解するわけじゃないけど制定形とかトーナメントのありかたは、現在進行形でまだ試行錯誤が続いてるとみえますけどね。直接の敵は目前の太刀なのに、勝負しているのはひょっとすると隣の組?確か混乱するよね。
佐々木
あっそうなのか・・・、組なんですか。
安斎
どっちの組がうまくやったかですよね。フィギュアスケートみたいに審判がいて、結局は人が評価するわけでしょ。
中村
そう。
佐々木
武道として矛盾してるよね。ダンスなのか?武道なのか? このトーナメントとか、そもそも制定形っていつごろできたんですか?
中村
昭和43年ごろ。
佐々木
最近なんですね、それまではどうしてたの?
中村
佐々木さんが杖道の勝敗が解らないとおしゃってましたが、かつては、いかに優れた師匠と技を磨きながら修行していくか?人生をおくるか?ということで成立してた道だったらしい(中村メモ:事実関係、確認中)。
佐々木
こういう大会はなかったのね?
中村
ないと思う・・・・(中村メモ:事実関係、確認中)。
安斎
どんな分野でも制定形がある。制定形ができてさっき佐々木さんが言ってた構造を壊すシステムが閉じられちゃう。
中村
杖道の世界はいまのところ、ダブルスタンダードで、12本の制定形を修めて昇段していく道と、古流、正確には神道夢想流杖道(術)の形72本を錬って稽古して巻物を拝受する方式;奥入、初目録、五目録、免許、免許皆伝に至る道と。 皆伝までいくのは大変、最後は口伝で技を伝授されるんだと言います。 古流のビデオみるとよく思うんですよね、相手が真剣に斬ってくる、それをはしっと受け止め斬り返す、対話的な真剣勝負。そこに遠慮や加減はない、これってイメージや創意をぶつけ合う連画と同じじゃん。
佐々木
まったく知らない相手と、剣道みたいに試合するというか演武することはあるの?
中村
どうなのかなあ?・・・、制定形はあると思うけど、古流72の形はどうかなあ?各師匠によって微妙にニュアンスが違うとも聞くよ。
佐々木
いずれにしても杖道のようなものは、スポーツにはなかなかないですねよね。
中村
スポーツにはないね。
佐々木
スポーツには敵と味方しかないじゃないですか。
中村
杖道はちがう?
佐々木
敵でもあり味方でもある・・・
中村
奥と言われる技は、超シンプルで観ててもよく解らない。奥伝の一本「阿吽」をみせますね。
太刀と逆手にあわせる瞬間に、あーーーうんっ!おわりい。 ▲古流ビデオ/乙藤師範×波止師範演武(△このビデオにはリンクしてません)
佐々木
えっおわりなんですか?、なにを今してたのか解らない(笑)。
安斎
もし実践になったとき、動きを何手先までって読んでるの?、野生の中でやったときも通じるのかな?
中村
うーん・・・・・・・

質疑応答・・・

安斎
さて、せっかく佐々木さん来てるから、みんなから聞きたいこと、質疑応答タイムにしません?。
中村
twitterもずいぶんあがってるね
伏木田
VRとかARのあとに円を描く話が出てきたときに、こっち側の世界と仮想世界の境界が円なんじゃないか?という話がすごく面白いなあと思って、人によっては見えている円がものすごく薄かったり距離があったり、広がりも狭さも両方持ち合わせてる感じで、その度合いが面白いなと思いました。

佐々木
宇宙の外側の形状はどうなのか?普通は球状と言われますよね、地球儀の内側みたいな。では宇宙船でずっと行くと壁があるのかっていうと、壁はない。宇宙空間は3次元じゃなくて最近の研究では7次元といわれて(笑)、とりあえず4次元としましょう。3次元+時間で4次元空間というのは、われわれの空間認識能力では絶対認識できない。膨らみつつあつ風船の表面で生きてるというイメージ。
ドーベルマン長田
構造化、可視化、破壊の繰り返しという螺旋に成長していくのかなと思ったんですけど、たとえば中村さんが油絵からはじまってデジタル行ってカンブリアンやって、しかしいきなりデジタルからはじまってという人もいて、人それぞれだとおもいますがそのへんはどうなんですか? 最先端を行く人にとって、構造化、可視化、破壊が行われているのか?その途中から初めてみる人たちもいるわけじゃないですか、そんなことが同時並行ですすんでいるのかなって?
佐々木
まずひとつはね、それが進化かどうか?って話。進化とは限らない単にくり返しの運動でしかない可能性はあるんですよ。もうひとつ、それがエッジの人たちだけの話なのか? ジャズの一連の流れが進化なのかエッジな人々だけのものなのか?、結果的にポピュラーな音楽に影響していると思うんですよ。たとえ浜崎あゆみや倖田來未のダンスミュージックみたいなものにね。 ちなにもういっこ面白い話をすると、イギリスのブライアン・イーノに関する記事、ある日家に帰ったら20代前半の娘さんが1970年代のプログレッシブ・ロックのピンクフロイドかなんか聴いてた「なんで聴いてるの?」とイーノが聞いたら「えっ!これって古い曲だったんだ!?」と驚いたんだって。
iTunesみたいな音楽配信サイトができたことによって古い音楽も新しい音楽もまったくシームレスに聴くことができる。逆に音楽の歴史や流れ知ってるファンにとってはなんのプライオリティもなくなってしまうという状況が今起きてるんですよ。今、音楽の世界は、ミリオンセラー聴くみたいなトレンドを追うのでなく、自分がもっている共有空間、メディア空間の中に存在するエンターテイメントしかない。
身体性の話に戻すと、ミリオンセラーを作って売ってくというモデルがそろそろ限界に来ている。マドンナが、一昨年かな?長年契約してたワーナーミュージックを切ったんですよ、CDじゃ儲からないから。そして別の会社と再契約した。何の会社かというとライブコンサートの会社。ミュージシャンにとってのビジネスモデルが、CDを売るんじゃなくてiTunesでどんどん安価に聴いてもらう消費してもらう、そのかわりライブコンサートとか写真集とかTシャツといったサブコンテンツ、リアル空間と接続しているものを売ってくというモデルに動きつつある。
かつてバリューのあったコンテンツの価値は無くならないけれども、付随していたパッケージの価値は消滅しつつある。場とかリアル空間のもってるパワーみたいなものが再構築される時代にそろそろ来てるんじゃないかな。
安斎
アートとか、小説の世界にもありますよね、きっと・・・
佐々木
小説も今後変わると思うんですよ。アマゾンのキンドルはアメリカでも100万台くらい売れていておそらく来年には日本語版もでそう。 音楽と同じように価格破壊が起きて読書が個々の貴重な体験ではなくて、環境的な、ソーシャルな読書空間の可能性ができてるんですよ。
たとえばケータイ小説。
単一のパッケージとして読まれてるのでなく、配信サイトにケータイ小説作家が毎日毎日やってきて短いパーツを流す。すると読者がそのコミニティに参加してきて彼らの反応がストーリーに影響して小説そのものが変質していくようなあり方。
すべてがコミュニケーションプラットホームのなかに含まれている、環境空間化していく。
中村
マドンナは生身でライブに出張っていくイメージ?けっこう大変ですね・・・52歳でしょ?これからますます身体勝負ですか(笑)!帯刀さん、どうですか?昨日はタップダンスの発表会だったようですけど・・・
帯刀
うーん、わかんないようでとてもわかると感じてるところがあります。わたしタップダンス15年目なんですけど、タップダンスにもやっぱり形があって、自分の空間と外の空間があって。
先人たちが自分たちの表現をどんどん広めるためのものでありながら、ジャズと同じようにすごく自由にやってるようにみえてもそこにはきちんと形があります。それをどんどんくずしてく中で、自分流みたいなものを出してタップダンス同士の対話があったりバックのバンドたちとの対話があったりします。
自分の枠というのは、初心者のうちははその中に閉じこもっているけどある段階でばっと超えるときがあります。 超えるとき・・・横のものがみえてそれと他の横のものがみえてきて、まるで前に鏡があってそれを通してもう一度自分をみるみたいなことができて、するといままで決して破れない硬い殻があったのに、破るのではなく外と自由に行き来できるようになる。すっと出たり入ったりができるようになる・・・(ここでタップ実演いきなり始まるw)、内と外にも対話があるのかなと思いながら話を聞いてました。 「百錬自得」の話の中にしても、いいものを一回やればいいとう話は上級者むけであって、やはりそこに至るには、何万回もくり返し血のにじむような稽古や挫折ありの時期が絶対必要だと思いました。

中村
でも、ずっと精進精進、精神論ばかりもいやでしょ。もっと体の機能的な部分をあっさり、科学的に、この筋肉をこう動かすとこうなるよーみたいなことも必要じゃないの?・・・
帯刀
うん、そうするとたぶん年齢層が広がるんですよ、できる人のね。タップでも杖道でも子供はたぶん感覚で解るから「背中をみなさい。」的に師範の背中見てできると思う。
でも、おばさんやおじさんが始めようとしたら構造を教えてもらえるとすごく解りやすい。”言葉になったレッスン”というのは、すごく年齢層の幅を広げるような気がします。
安斎
杖道の制定形ってのは、大衆化を狙ってる?生成の現場と大衆に広がってくのとは論理が違うんだな・・・
中村
大衆化、生成、その中間などなど、多様というか悩ましいけどそんな広がりも必要かなあ・・・・・というところそろそろ時間ですね(笑)。
佐々木
あまり身体性の話になりませんでしたね(笑)。
中村
超多忙なところ、長時間ありがとうございました!
-02:21:50終了

intermission 1

杖道とは?


▲128cmの杖(じょう)も準備

中村
わたしはほとんど無趣味だけど唯一散歩が趣味、途中でいろいろなものを拾います。貴金属だったり、ヒトだったり。 そんな散歩の途中、2003年ごろ、まるでジェダイマスターのヨーダみたいな老人に遭遇・・・大塚先生(多摩杖道会)、さらに渋谷に生息する大ヨーダ、神之田先生(日本杖道会)との出会いがあって杖道にすっかりはまりました。

【杖道とは?】wikipediaより一部引用

杖道(じょうどう)は、杖(じょう)と呼ぶ木製の棒、および木刀を用いる武道(形武道)である。

宮本武蔵と同時代の夢想権之助を開祖とする「神道夢想流杖術」を基に、清水隆次、乙藤市蔵が制定した杖道の流れを汲む「全日本剣道連盟杖道」が現在最も修行人口が多く、一般に杖道といえばこれを指す。その内容は、両手を広げた両掌中の程よい長さの杖を用いて左右均等(左太刀的)に千変万化の「打つ・突く・払う」等の技を繰り出すものである。使用する杖は神道夢想流杖術の流派杖である長さ4尺2寸1分(約128cm)、径8分(約24mm)の白樫の棒が標準であるが、本来は、立って足下から胸の高さまでの長さが良いとされている。太刀は3尺3寸5分(101.5cm)、柄の長さ8寸(24.2cm)の白樫の木刀を使用する。最大の団体は全日本剣道連盟杖道部である。通常稽古されているのは、本来「捕手術」に用いられていた実戦的で危険とも言える「杖術」を、広く普及するために、神道夢想流杖術の形から日本剣道形と整合した杖道形として1968年(昭和43年)清水隆次、乙藤市蔵により原型が制定され、その後改良が加えられているものである。

「全日本剣道連盟杖道」は、一人(単独)または二人(相対)で行う基本十二本と、二人で攻撃防御の形稽古を行う杖道形(組形)十二本がある。特に形では、打太刀(うちだち)、仕杖(しじょう)に分かれ、攻撃防御を行う。気合は打ち込みで「エイッ!」突きで「ホォッ!」と力強く発声する。

【English 神道夢想流杖道】

神道夢想流杖道というのは、400年延々と72の形がひとつも欠けずに現代まで伝わっている稀少な古武道、無形の文化です。 私ね、アートって型にはまっちゃいけないとか、型を破るとかを課されてやってきたという意識があります。 連画、カンブリアンゲームも、型をうらぎる、型はずしみたいなアートです。 そのわたしが形武道にはまるってのはいったいどうしたこと?!、去年、2008年の講義では、逆説的ではあるが古武道の形の中に自由さや創造性をみつけたんだよという話をしました。
2008年講義録「あっちからやってくる師匠がカモねぎにみえた」
ゲストにいらしたスキルトロニクスを提唱する電通大の西野さんには、ジャグリングの実演までやってもらって、人を厳しく一段引き上げる道具やシステムって何?という話で盛り上がりました。

▲西野メモ

[補足*]スキルトロニクス;スキルサイエンス+メカトロニクス、西野さんによる造語。彼の考えを3行くらいで言ってしまえば、人の能力を引き上げてくれるような道具、仕掛け、機会をめざす。とかく人にやさしいとか、人をぐるりとくるんでただただ便利なもの、お節介なものではなくて。それでは人は賢くならないし、先に進まない、向上しない。人を一段引き上げるような仕掛け、システムをめざしてる。 杖道は、スキルトロニクス的なシステムかもね、師匠があっちからシステムしょってくるかもね、というところで盛り上がりました。

渋谷に大ヨーダがいると言いましたが、現在82歳になられます。 講義の最初に、神之田先生が52歳くらいのとき、1980年ころフランスで撮影された【Mmaitres du Budo】を視聴しました。
太刀落(たちおとし)、霞(かすみ)、雷打(らいうち)、真進(しんしん)の実演です。 つづいて、現代杖道ともいえる【制定形ビデオ/全日本剣道連盟制作】も視聴、着杖、水月、引提の3本。
(△現在、これらの動画はリンクされません。)
杖道の特長は、急所を適切に狙う 水月、霞、脾腹、そして相手の動く兆しをみてはじめて動きます。

▲【Mmaitres du Budo/演武者:神之田常盛×ドン・F・ドレーガー】2'57"



intermission 2

「ダ・ヴィンチの絵をみたとき確信、杖道は芸術そのもの」

林映子杖道八段へのインタビュー


▲林映子八段による演武、長身でまるで和製グレイス・ジョーンズみたいなかっこよさ


林:レオナルドのこの絵にすべてがある。 杖の運用なんですよ、円の中に杖があるんですよ。杖を運用するとき丸いんですよ。
これをみたとき、「まさしく杖だ。」と思ったんです。
杖は、芸術意外のなにものでもない。
ものごとってバランスがだと思うのね、あの重い刀にもバランスがあり体にもバランスがあるでしょ。動きだけでなくて、わたしは、感情にもバランスがあるとおもうね。 円もね、バランスだと思う。
絵にも落款を押すでしょ。ここがいいとかこの大きさがいいとか、それをどこに押すか?・・・小さくても大きな存在、大きくても軽いとか、ものごとの位置って決まってると思うのね。
絵にも杖にもなにもかも落ち着く一番いい場所がある、バランスがあると思う。


中村:何もしてない体って自由なようだけど実は不自由だなってことを、杖道はじめて解かったように思います。72の形、400年かけて残ったこれを会得するとかなりの財産ですね、無形だからもって逃げられる。
最初模範演舞みたときすぐきそうなんてなめてかかったてたんですけど、ちっともできないですよね。少しやってみるとわかるけど、技の流れが決まってるといっても、その形のむずかしさや精妙さ、もどかしいですが、その深さ面白みがみえてきます。

林:形のよさは、融通が利かないこと。理合いがはっきりしている。いかに真面目にきっちりやるかってことが難しい。 64本、数え方によっては72本いろんな技があって、形をまじめにまじめにやってると、臨機応変に対応できる。


中村:アートってのは型にはまっちゃいけない、オリジナリティが大事と思い、何事にも嵌らないように用心してたのに、すっかり形武道にはまった自分がいます。
逆説的ですよね。しかし、自分が忌み嫌ってきた型と杖道の形は、ちょっと違うぞというところから、去年この講義も始まっています。


林:形がきちっとしてればしてるほど自由なんです。ある意味、逆説?だからきちっとやらなきゃ。 形をきちっとやるんだけど、形にならない、だけど形である。
形をおろそかすると自由がなくなる。 きちっと斬る、きちっと受けるで成り立った形が、形でなくなる。 形であるからこそ、形でない。 形をやりぬいてやりぬいて本当に自由になる。
何本もいろんなタイプの受け、攻めをしてとっさにこの一本に、ばっとでる。
だから修練しないと、「ええと・・・」なんて考えてちゃだめ、体で覚える!。
新しい人たちに教えるとき「本で読んじゃダメ」とも言ってるの。 本は読まなくていいから、教わったことを体で覚える。
自分ができないからって形をゆるめたらだめなのね。 形の通りにできないのは、自分の運用が悪いんだから、難しくとも必ず形の通りにやろうとすることが大事。


中村:うーん・・・形であって形でない、魅力的な言葉、今のわたしには謎もいっぱいだけど。
ところで林映子さんのモットーは「杖道は太く長く!」だそうですね、普通は「細く長く」なのに・・・。


林:長くやるつもりじゃないとだめじゃない、細々でいいとおもったらもっと細くなっちゃうものね(笑)。


(2009年9月5日土曜日、稽古場近く新松田にて)

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