#アトリエ 訪問 #絵描き #純粋絵画領域 #野見山暁治
2024年11月30日(土曜)、
願ってもいない機会を得て、主の亡いアトリエをお訪ねする。
表札には大きく、「野見山暁治 武富京子」とある。
中に入ると、柱が一本もないこじんまりした細長い体育館のようだ。
ここは作家にとっての秘密基地だ。
手前のアトリエ部分の天井まで3.6m、奥の居住スペースは2.7m(すぐに、杖道の杖が繰れるか?回せるか?を考えてしまうところが、あたしってさすがでしょ?!)
絵具やオイル、筆ほか作画材料生前のままに、創作のとっておきの工夫やコツ、私生活の隅々まで日頃なかなか垣間見ることのできない情報がつまっている。
大小描きかけの作品が画架に並ぶ。
私の使ったことのないダンマルワニスの大びんも並ぶ。
「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」 インタビュー映像“ラストテイク”【練馬区立美術館】
昨年2023年春、102歳で亡くなった野見山先生を、地下鉄有楽町線の渋谷方向ホーム先頭に向かってる姿をみたことがある。
90歳はすぎていたとおもう。杖も突かない、さくさくと歩いていく。ちょっと信じられない景色だ。
沿線の、東京メトロ副都心線 明治神宮前駅(改札正面、千代田線乗換回廊、ステンドグラス状大型作品)「いつかは会える」パブリックアートとして公開中だ。
今、練馬区美術館で展覧会も開かれている。
これの一環として、「海の階段」と呼ばれるアトリエ訪問のチャンスが叶った。
建築家 篠原一男により1971年に設計・建築されたアトリエ。
外見は極めて質素で特徴のない細長い箱状で、きっと大方の人は倉庫か何かか?と思うに違いない。
野見山暁治は、東京のこのアトリエのほか、もう一棟、福岡県の糸島に同じ建築家による「糸島の住宅」(1976年)を建設。
最後お亡くなりになったのは、ここで。搬送先の病院では、数10分前まで新聞を読み関係者と言葉を交わしていたそうだ(野見山曉治財団、山口千里さん談)。
九州、炭鉱王の父を持ち、1959年渡仏、最初の妻を亡くす。1968年東京芸大の教員、1981年退官。この間、以降も精力的に制作に励む。「400字のデッサン」などエッセイほか優れた著作物もある。
妻、武富京子は、福岡市中央区西中洲の高級クラブ「みつばち」経営、2001年76歳で惜しまれながら没す。
https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20011001000006
wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%A6%8B%E5%B1%B1%E6%9A%81%E6%B2%BB
「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」展|練馬区美術館(2024.10.06(日)~ 2024.12.25(水))
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202409061725590312
野見山曉治財団
http://nomiyama-f.or.jp/